文学・宗教・政治

村上春樹氏への働きかけを批判する人って、たいていはイスラエルの行動に「苛立ち」だの「憂慮」だのを抱いているらしいが、その人なり(要は自分なり、ということであろう)のやり方というものがあったり、行動できない事情がある場合もあるのだから、その行動なり非行動の自由を束縛するのはおかしい、という言い分のようである(こっちは、束縛するつもりはないんだけど。)。
ところが、この人たちは、村上氏に働きかけることがこの問題の解決(改善)のための「有効な方法だ」と思ってる人たちの行動や発言の自由だけは認めたがらないようなのだ。
変なの。


何度も言うけど、こういう声があるということを知った上で村上氏に判断してもらおうということであって、束縛や強制の意図などないのだ。そんなこと、出来るわけないだろう。
それなのに、そういう声が上がること、世の中の表面にそういう動きが出てくること自体が気に食わないらしい。
えらく不寛容な人たちだと思う。


いったい、村上春樹氏にエルサレム賞の辞退なり、侵攻や占領への抗議の意思を明確に示すような行動をとるよう促すということが、それほど個人の自由を損なう理不尽な要求だろうか?


まあこれが、「村上春樹は、もっと反戦的な小説を書け」というふうな「働きかけ」だったら、ぼくも理不尽であると思うだろう。
そもそも小説などというものが、その内容がどんなものであれ、おいそれと現実の世界の動きに影響を与えるものだとは思わないし、あまり思いたくもない。
村上氏がどんな小説を書いていようと、それをガザ情勢を含め、現実の社会の動向と結びつけて批判するということには、さすがに同意しない。
村上氏が文学的営為を通じて、人間の(いわば)精神的な領域にどんな感化を及ぼそうと(仮に)試みていようと、それはそれで結構なことだし、全面的に尊重したい。


だが、今回の(村上氏への)働きかけにおいて主張されているのは、文学作品の内容に関すること、つまり文学の領域の内部に関わることではなく、作家である一人の人物(人間)の行動に関することである。
文学というこの領域に外部はない、という風な見解をかりに持つ文学者があるなら、その見解は、それ自体がひとつの文学的な立場というものだろう。ここでは、そうした立場は尊重した上で、ひとつの明確な政治的(文学外的、と仮に言おう)行動をとってほしい、とるかとらないかの判断を行ってほしい、と求めているのである。


とくに「文学と政治」という風な課題をめぐっての、村上氏の作家としての(広い意味できわめて政治的でもあろう)戦略について、ぼくは多くを語れる立場にはない。
だが、今回のガザ侵攻という現実、またそもそもイスラエルパレスチナをめぐる現実が、ぼくたちに提示しているものは、たとえば「文学」という風な文化的であったり精神的であったりする領域が、それ自体としてはどれだけ充実していても、人間の他の人間に対する蛮行や、その行為を容認する冷淡さを改善するには、当面はまったく無力であるということ、だからこの目の前の現実的課題については(この改善が必要と考えるなら)、文学的方法以外の選択肢をもし持ちうるのであれば、それを選択するべきだという事実ではないだろうか。
ぼくたちは、エルサレム賞の授与という出来事が、村上氏にとって、まさにその選択肢をとりうるチャンスだと考えるのである。






文化的・精神的な領域の内と外、ということについて、少し別の角度から考えてみよう。
村上氏の文学を評して、「霊性」ということ、人間のそうした部分に働きかけることをテーマにしている、と言う人があるようだ。それは無論、狭義の宗教的な文学だ、という意味ではないだろうが、氏の「文学」(この用語を氏が信じているかどうかも知らないが)が、通常の意味での「政治」では触れることの出来ない人間の深い精神的な面に働きかけることを、ひとつの目的としていることを述べている意見だと思う。
だが、イスラエルパレスチナをめぐる動きを見ていて、はっきりと分かるのは、人間は十分に「文学」的であったり、十分に「霊的」である場合でも、平然と多くの他人を虐殺することができる、ということではないか。
イスラエルは、そこに住む多くの国民、ユダヤ教徒にとっては、地上でもっとも宗教的な国家、聖なる国土といえる場所であろう。多くのユダヤ教徒は、たんに政治的シオニストや列強の思惑に煽られてそこに移住したのではなく、その信仰のゆえにそこを思慕し、移り住んだはずだ。
宗教を、その外部を持たない完結した空間のように考えるなら、ここには霊性において何も欠けているものはないはずなのである。
にも関わらず、そこでは虐殺や隔離の正当性が自明のもののようになっている。これは、その霊性(宗教性)自体に、その原因があるのだろうか?


なるほど、正統的なユダヤ教徒のなかには、まさにその信仰を拠り所として、イスラエルの行動・政策や、国のあり方に批判を向ける人たちもあることは知っている。
だが、果たしてこれらの人たちと、それ以外の(占領や侵攻を容認する)ユダヤ教徒シオニストたちとの差異は、「真の信仰」と「偽の信仰」との差異だろうか?
宗教心の何らかの欠如が、自国とシオニズムの欺瞞性に対して人々を盲目にさせているのであろうか?


そうではあるまい。
自国を批判しうるユダヤ教徒には有って、批判し得ないユダヤ教徒には欠けているもの、それは宗教的な何かではなくて、宗教の「限界」についての認識である。
言い換えれば、人は大いなる霊性を有しながら、同時に(だからこそ、とまでは言わぬまでも)他人を殺しうるし、不正の限りを尽くしうるものだという苦い認識であり、だからこそ、「霊性への働きかけではなく、行動が」ときには必要だ、という自覚だろう。
この自らの(地上的な)限界に対する認識、それが信仰を、他人の生に関わる真の「宗教」へと至ることを保障するものであろうと思う。


同じことが、「文学」という領域に関してもいえるのだ。
文学作品が何を伝えようと、それは現実の悲惨に対しては無力である。もしそれが無力さを免れ、迂遠ではあっても、「政治」にはなしえないような何事かをなしうるとすれば、自らの限界を、つまり「人は最良の文学に親しみながら他人を虐殺できる」という事実を認めた場合のみである。
そのとき、文学は、わずかに政治の支配の外に逃れうるのだ。
文学は、政治の前で自らの無力さに恥じ入ることによってのみ、はじめて政治の支配から脱し、政治の外で自らのなしうることを確立する。
その限界の自覚とは、また同時に、自分が文学の側の人間だということ、つまり言葉や文字を有することによって他人を支配している(したがって、虐殺をも正当化できる)側の人間だということを自覚し、そのことに恥じること、そしてそうした支配への加担に対する責任や嫌悪を感じる経験でもあるはずだ。


こうした事実を、つまり「文学」という領域の限界を(支配という意味での「政治」からの自立のためにこそ)認めるなら、文学者である一人の人間は何らかの(あえて、非文学的と言うが)行動の可能性の前に立つ以外、ないであろう。
その場所に立った上で何をするか、しないかは、無論当人以外に引き受けようのないことであるが。
私たちが立ち会いたいのは、この一人の人間の判断の場所であり、そこに立ち会うことは、また私たち自身の行動と非行動を背負うことでもある他はない。


とはいえ、村上氏自身は、おそらくこうした文学と政治の力学については、きわめて明晰な意識を持ってきた作家だと思う。
「人は最良の文学に親しみながら他人を虐殺できる」ということなど、百も承知であろう。そのうえで、自分の作家としての態度を決めてきた人であろう。
だがそれでも、「政治」という名の現実は知らぬ間に、文学者のさまざまな戦略をとりこんで支配の道具に変えていく力を持つということも事実であるはずだ。
村上氏が、現在のこうした動向を見極めて、どのような対応を示すのか、いくらかの期待をこめて見守りたい。