ガタリ『三つのエコロジー』

この本の表題になっている論考は、1989年に発表されたものだそうだ。

当時の世界的な関心事として、ここでは特に三つの出来事が例に挙げられている。それは、チェルノブイリエイズ、それにドナルド・トランプによるNYとアトランティックシティの貧困層の排除、つまりジェントリフィケーションである。

この年には、天安門事件も起き、やがて「壁」の崩壊、日本国内でも、天皇の死、バブル崩壊と、内外で「グローバル経済」時代なるものへの転換(資本主義のモデルチェンジ)が本格化していった時期であったと思う(その「グローバル」なるものの内実が、まさに今、露呈しつあるとも言えるが。)。

さて、そのさなかでの、ガタリの発言。

もちろん難しい本で、詳しくは分からないのだが、目立つことは、ガタリがこのグローバル社会における(ガタリ自身はこの語を使っていないが)マスメディア権力の役割に大きな注意を払っていることである。それは、彼の独特の「主観性」(の生産)の概念に関係している。

 

 

『問題は、悲惨や絶望の同義語にほかならないマスメディア加工の方向にではなく、個人的そして/あるいは集団的な再特異化の方向にむかう主観性の生産装置とはどのようなものでありうるかを検討することである。(p18)』

 

 

『およそありとあらゆる場所で、またいかなる時代においても、芸術と宗教が、「実在化をうながす」ような意味の切断をひきうけるところに成り立つ実在的地図の根城であった。しかし現代にいたり、有形・無形の物質財・非物質財の生産が個人的・集団的な実在の領土の一貫性をそこなうかたちで激化しているのにともなって、主観性のなかに巨大な空洞が生じ、ますます不条理な、どうしようもない事態におちいろうとしている。(p37)』

 

 

こうした不安な状況に直面して、社会は「過去への回帰」という危うい閉じこもりてきな傾向を示していると、ガタリは指摘する。

 

 

『そのなかには、ときに、日本におけるように宗教的信仰とほとんどかわりのないものも見うけられる。移民者や女性、若者、さらには老人に対しても隔離差別的な態度の変化が見られるが、これも同じような思考レヴェルのなかで生じている事態である。主観的保守主義とでも名づけうるこのような現象の再浮上は、単に社会的抑圧の強化のせいだけに原因を帰すべきものではない。それは同時に、社会的作用因子の総体を巻きこんだ一種の実在的けいれん状態に由来してもいるのである。ポスト産業資本主義―私としては統合された世界資本主義という形容の方を好むのだが―は、その財とサービスの生産構造を取りしきる権力中枢部の位置を、しだいに、記号や統語法(シンタクス)や主観性の生産構造の方向へずらそうとしている―わけても、メディアや広告や世論調査などを支配統制するという回路を通して、それを実行しつつあるのである。(p38~39)』

 

 

『資本主義的社会は三つのタイプの主観性をつくり出して、それらを資本主義のために奉仕するようにしむける。すなわち、第一に、給与生活者階級に対応する集列的な主観性、つぎに、膨大な「保証なし」の大衆に見合った主観性、そして第三に、支配的階層に対応したエリート的主観性である。社会総体の加速度的なマスメディア支配は、このいくつかの異なった人々のカテゴリーのあいだにしだいに明瞭なひらきをつくりだしていこうとする。エリートの側は、物質財や文化的手段を十分に享受し、読み書きは最小限にとどめながら、ものごとの決定にかかわる権威と正当性の感覚を身につける。それに対して、従属する諸階級の側では、ものごとに対する投げやりな態度、みずからの生に意味を与えようとする希望の喪失感などがかなり一般的に醸成される。(p59~60)』

 

 

こうしたことは、その後の30年間で現実に起こった。そしてわれわれは、資本主義とのこの「主観性の生産」をめぐる闘いに、概ね敗北してきたことを認めねばならないだろう。

また、当時はまだ無かったSNSというものも、今やこうした支配力の一つになりうるものとして、警戒が必要であろう。もちろん、あらゆるメディアと同様、それを「民衆の手に」という願望を失ってはいけないけれども。

ともあれ、コロナウイルスを奇禍として(「ピンチをチャンスに」?)、ほぼ30年ぶりに支配と搾取の新たなヴァージョンへの本格的転換を図っているかのようにも見える、資本と各国政府に対峙するにあたって、ガタリがここで示している基本的な姿勢を心に刻んでおくのは、意味のあることだろう。

 

 

『あらゆる性質、あらゆる規模の作用因子によってつくり出される資本主義的主観性は、世論の機能を狂わせ混乱させうるいっさいの出来事の侵入から既存の生活を防護するような仕方で加工生産される。資本主義的主観性にしたがうと、いっさいの特異性は回避されるか、あるいはそのためにしつらえられた基準的な装備や枠組の支配下におかれなくてはならない。かくして資本主義的主観性は子供や愛情や芸術の世界とならんで、不安、狂気、苦痛、死、宇宙のなかの彷徨感覚といったような次元に属するものまで、いっさいのものを管理しようとする。(p42~43)』

 

 

『再特異化の主観性が欲望や苦痛や死といったようなすがたをまとった有限性との遭遇を真正面からうけとめることができるようにならなければならない。(p70~71)』

 

 

三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)