『カルト資本主義』

カルト資本主義 (文春文庫)

カルト資本主義 (文春文庫)


斎藤貴男のこの本が単行本として出版されたのは、1997年のことらしい。その後、2000年になって、この文庫版が文春文庫から出た。
そのあとがきでも、すでに気配のあったことが書かれているが、日本という国全体がすっかりカルト化してしまったとしか思えない今になって読むと、何とも言えない気持ちになる本である。
以下、簡単に内容と感想をメモ。


導入部の第一章では、当時日本を代表する世界的企業だったソニーの、超能力への関心が語られている。
次の第二章のなかに、当時流行していたいわゆるニューサイエンスに関して、その起源が、量子力学における、「客観性の否定」、観測者の重要性の強調、主体と客体の不可分性の主張、などの事柄にあったと書かれている。
これについて、物理学者の田中正という人の文章(『物理学と自然の哲学』)が引いてあるのが分かりやすかったので、孫引きしておこう。

<しかし客観性、実在性のあり方を、巨視的世界でなじみの、このような直観的でナイーブな形に限定し、それをどこまでも自然に押しつけるとしたら、それはまた初期のアインシュタインが正当にも忌避した「形而上学的思弁」に化すおそれがあります>(本書 p79〜80)

アインシュタインは、そうした量子力学の根幹に「知性の放棄」につながりかねない要素があると見て、これを批判したが、そのアインシュタインのような態度を過度に「唯物論的」であると見なして、極微の世界の不確定性を普遍的原理のように考える研究者たちが出てきた。これがやがて、ニューサイエンスの源流になったというのだ。
カルトの問題は、科学や唯物論のあり方にも関わっている。
そう言えば、広松哲学も、(関係や身体の次元は別にして、根本的な物質性の次元では)量子力学の知見を導入することで唯物論マルクス主義)を内から改革しようというような意図のものだと思うが、そこには危うい面があるということか。


第三章では、京セラの稲森和夫のことが書かれている。アメリカのニューソート思想の影響を受けて「生長の家」を興した谷口雅春との関わりや、河合隼雄など当時の新京都学派の人々とのつながり。
本書の文脈から特に重要なことは、60年代以後アメリカで隆盛したニューエイジ思想(その良質の部分)に見られる、反知性主義への傾きに対する自覚や緊張感が、日本に入ってくると消えてしまい、稲盛に代表されるような個人否定の「日本的経営」への全面的自己賛美になってしまうということである。

計算ずくなのか、無意識の産物なのか。私はこういうところに、日本という国の奥底に潜む底知れぬ“闇”を感じる。西洋近代文明へのアンチテーゼであるニューエイジは、米国の個人主義が行き過ぎた反動として必然的に登場した。だがわが国は悲しいかな、初めから個が生息できる余地が限りなく小さい国なのだ。(p155)

私に言わせれば、“稲盛哲学”ないし“京セラフィロソフィー”は、その実どこまでも人間を企業に縛りつけ、奉仕させるために内面から操り、究極の奴隷とする呪術的便法に過ぎない。(p164)


第四章では、当時の科学技術庁にも食い込んでいた、ニューエイジ運動の実態が探られる。当時の状況を捉えた島薗進の著作『精神世界のゆくえ』が、詳しく言及されている。
これは僕の考えだが、いわゆるポスト・フォーディズムへの移行とあいまった、近代主義や知性主義への否定という世界的な趨勢と、バブルとその崩壊を経験した日本社会の、自己への全能感(「日本は素晴らしい!」)にしがみつきたいという欲望とが、この時代に重なり合ったということではないか?
90年代は、歴史問題についてのアジア諸国からの告発などが次々に寄せられて、その面でも戦後日本の自己意識が動揺した時代だったが、ちょうどその裏側で、このような事態が進行していたのだ。


第五章では、EM菌と世界救世教の関係が主題になっているが、ここで著者は、アメリカのニューエイジ思想を研究したストームという人の分析(『ニューエイジの歴史と現在』)を詳しく紹介している。
それによると、アメリカでは、60年代の反資本主義(反システム)運動の挫折を経験した人たちが、いわば転向して消費社会のなかで暮らすようになっていたが、80年代に入って、そうした人たちにブランド志向の生活とスピリチュアルへの志向とを両立させる方途を提供したのが、ニューエイジ思想だったという。
こうした、変革の内面化というか、脱政治化のようなことは、いつの世にも起きることであろう。そして、それが必ずいつも間違っているとも言い切れない。
だが、ニューエイジの特徴は、そこでなされる「自己発見」が、モードチェンジした資本主義にとっての有能な駒へと、個人を変えてしまうものだ、というところにあるという。つまり、これは資本主義や経営の新しい形態にマッチしているということだ。
これも、(僕自身は好きではないが)それ自体で直ちに悪いというわけではないが、それがある面では、近代化(個人の尊重)を経ていない「日本型経営」のようなものと似ている部分がある。
そこで、近代と対決するという「個」の契機を抜きにして、このニューエイジ思想が日本に導入されると、それは滅私奉公の封建的(反人権的)な日本型経営・労働のマインドを絶対化するようなものとなっていった、ということだろう。


第六章の主人公は、オカルト的経営理論のカリスマ、船井幸雄である。
この人の場合、「この世の全ては必然であり必要であり、かつベスト」という超ポジティブ思考と、日本人としての全能的な自己肯定感との結びつきが、明瞭に見られるらしい。
これに関連して、90年代に大流行した新霊性運動は、(近代主義や知性主義への批判として)日本では「伝統の復権」と結びついたという、島薗進の指摘が紹介される。ここで、「天皇」の存在が大きくクローズアップされる。


また、この章では「労務管理」と呼ばれた日本の企業教育の歴史が戦前・戦中から辿られ、それが現在のニューエイジブームに適合するものであることが解説される。

ニューエイジというと一見新しいが、日本人にとっては実に馴染み深い、伝統的な価値観に過ぎなかった。すなわち、自我の否定あるいは没我、ないし“和”による全体主義。(p330)


第七章では、ヤマギシズムがとりあげられる。
僕は読んでいて、これは宗教や左翼的思想というより、安藤昌益のような江戸後期からの農村思想に根があるのではないかと思った。
家族を含めた個人の「所有」という概念を根本的に否定する、独特のシステム(この点はイスラエルキブツに、ちょっと似ている)。各個人の思考を他人(エリート的な人たち)に任せよという、家畜化を思わせる発想。創始者の山岸巴には、プラトンの『国家』を思わせるような、強烈な優生思想的考えのあったことが紹介される。
しかもその後、ヤマギシでは指導者の交代があり、この基本的な思想はそのままに、市場での利益を追求するビジネス志向の組織へと、大きく性格を変えていったらしい。
そのヤマギシの手法に、多くの大企業が関心を示していることに、著者は警鐘を鳴らす。
それは、極限の生産性、「自発的」労働奉仕による超低コスト(ヤマギシには、賃金というものは無い)、個の意思の全否定、そして「全ては全体(の利益)のために」というマインドといったものに、関心が寄せられてるということだ。

この事実と、わが国企業社会がニューエイジ運動ないし新霊性運動の一翼を担いつつ、呪術が人間を支配した時代への回帰を急ぐ昨今の状況とは、まさに軌を一にしている。(p362)

それが企業社会だけの現象ではなかったことを、今のわれわれはよく知っている。
また、高際弘夫という人の著作(『日本人にとって和とはなにか』)が紹介され、日本社会では、全体のための「和」が強調されるのだが、それは実は支配者たちの利益追求のための活動であることを隠蔽するためのイデオロギーのようなものだ、という指摘がされている。つまり、「和を損なう者だ!」という非難は、実質的には、「お上の意向に逆らうな!」という意味なのである。
こうして各人が、支配層に都合の悪いような情報や価値観には、頑なに目と耳と心を閉ざすようになることで、カルト社会は完成されていく。
ヤマギシが日本なのか、日本がヤマギシなのか』(p390)と、著者は自問している。


続く第八章では、アメリカ生まれのアムウェイ商法の問題性(日本進出には、アメリカ政府による強力な後押しがあったらしい)が暴かれた後、やっと終章になる。
著者はここでまず、90年代の日本の企業社会におけるニューエイジの流行の原因を、バブル崩壊で明らかとなった日本型システムの破たんということに見出している。

経営者たちは、それでも従業員の忠誠心だけは失いたくない。多くの日本企業は、それに優る有効な武器を持ち合わせていないからだ。そのために、ニューエイジや新霊性運動は好都合なのである。(p437)

そこからマインド・コントロールとしての「企業革新」という経営上の発想がうまれ、またそのことによって、一度は崩れかけたバブル期の全能感も維持されるわけである。
このあたりを読んでいると、3・11以後の安倍政権の姿が、はっきりと二重写しに見えてくる。


しかし、著者の斎藤が最も憤りを向けるのは、こうした「マインド・コントロール」ともいうべきシステムの搾取に対して、日本のサラリーマン(国民)たちが、抗うどころか、冷酷な企業に対してすすんで「自発的に」順応していく姿である。
それは、戦前の産業報国運動以来の企業人間としての洗脳訓練や、戦後の徴税システム、企業ぐるみ選挙などを含めた、日本特有の制度・慣習による「自我の破壊」の結果だと、著者は見る。

結果、個人の価値観は会社のそれと寸分の違いもなく、人々は会社の細胞としてしか生きることができなくなってしまった。“上”の言う価値観と自分のそれを、時には自分なりに都合よく解釈し直してまでも一致させようとする。(p441)

ここには、『自由からの逃走』でフロムが指摘したような、支配者の暴力にすすんで依存していく、権威主義的・マゾヒズム的な大衆(特に中間層)の心理のあり方を見ることができるだろう。

従業員たちはと言えば、無理を重ねたり、酷い目にあった時の精神的な痛みを和らげるため、無意識のうちに、これ(経営陣のオカルト的思考)を受け入れる。(p442)

同じことが、たとえば虐待の行なわれる家庭内とか、学校のイジメ社会についても、あてはまるのではないだろうか。そして、国全体についても。


こうして著者は、日本資本主義の「進化」形態として、カルト資本主義なる言葉を提起する。
そして、冷酷で残酷な現実をも、「必要、必然、ベスト」と考えて受けいれていくような「ポジティブ・シンキング」の考え方が、個人の生き方の指針にとどまるのでなく、普遍的な価値観の如きものとして社会に流通した時、国家による家畜化は完成されるのだと、警鐘を鳴らすのである。
忍従しないこと、個としての倫理と知性を手放さぬことこそが大事なのだと、著者は力説する。