モジモジさんのブログの以下のエントリーは、すでに多くの方がお読みになられたと思います。
パレスチナを、村上春樹のエルサレム賞講演がきっかけで読み始める人に勧める5冊の本
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090221/p1
ここで紹介されているものは、ぼくも読んでない本が大半なので、是非読んでいきたいと思います。
ところで、この選考過程では、『イラン・パペ、パレスチナを語る』も名前が出ていました。
イラン・パペ、パレスチナを語る─「民族浄化」から「橋渡しのナラティヴ」へ
- 作者: イランパペ(語り),ミーダーン〈パレスチナ・対話のための広場〉(編訳)
- 出版社/メーカー: 柘植書房新社
- 発売日: 2008/03/10
- メディア: 単行本
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この本については、ぼくも以前に『オルタ』に書評を書かせていただきました。この本で語られていることは、むしろパレスチナ問題に関して、イスラエルの国と社会を内側から批判的に見つめる、といった趣旨のもので、講演録でたいへん読みやすく、とても豊かな内容の本なので、さらに突っ込んで事情を知りたいという方は、読むことをおすすめします。
ところでこの本には、イスラエルに関して、ぼくが知らなかったことがたくさん書いてあるのですが、たとえば次の一節も、読んだときには驚きました。
イスラエル人たちは、自らの社会の内部にホロコーストの真の生存者がいることに気づきました。生き残った人々です。ここでみなさんは、この生存者こそホロコーストの犠牲者の主要な代表者だろうと思われるでしょう。しかし、彼らはイスラエルのナショナル・ナラティブに合致しなかったのです。イスラエル人たちにとってのナショナル・ナラティブにおいては、「ホロコーストの生き残りたちは、十分にナショナリストではない、彼らは闘っていなかった」、ということになります。彼らはホロコーストを生き延びたことについて重んじられませんでした。ですから、今日に至るまで、補償されていないのです。(p224)
国家・国民的な語りに合わないという理由で、補償もされない「ホロコーストの生き残り」の人々。
このような事情は、まったく知りませんでした。
これに関連したような内容は、『ショアーの衝撃』という本のなかでも語られてたと思いますが、生き延びた人たちが補償をされていない、ということは知らなかった。
- 作者: 鵜飼哲,高橋哲哉
- 出版社/メーカー: 未来社
- 発売日: 1995/06/01
- メディア: 単行本
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もちろん、同様のことはどの国でもある、と言えるかもしれません。身近なところで、具体例をあげることも容易でしょう。
しかし、ホロコーストの生き残りの人たちに関して、イスラエルでそのような実情があるとは知らなかった。
ぼくは、イスラエルのドキュメンタリー映画『選択と運命』という作品を、スクリーンで三回ぐらい見ているのですが、そこに登場するイスラエルで暮らす「生き残り」の老夫婦の日常の表情や生活に見られる、影のようなもの、その理由のひとつが、この事情を知ったときに、はじめて分かったと思いました。
http://www.independentfilms.jp/works/dvd_5.html
そして、先に書いたように、こうした「影」の存在は、われわれの社会にとっても、また多かれ少なかれどの国の社会においても、無縁とは言えないものでしょう。
人の心や生涯に「影」を刻み付けてしまうこの「歪み」には、ある程度普遍的な部分と、その国家ごとの特異性のような部分の両方があります。
われわれは、ある国や社会に特有なものであるかのようにその歪みを押し付けるわけにはいきません。
しかし、その国に固有の歪みを正確に見出して、批判していく態度は、自分たちの国や社会が持つ固有の歪みを糾していこうとする態度と、相関的であるはずです。
なぜなら、この歪みの構造は、普遍的でもあるわけですから。
このことは、人々の表情や声や、日常の生活のなかに存在する、(公的な語りから漏れ落ちてしまう)「影」の現われや気配に、ぼくたちがどこまで繊細であれるかという、厳しい問いに関わっているでしょう。