『シンボル形式の哲学 [四]』




岩波文庫で出ている『シンボル形式の哲学』(全四巻)では、原著の第三巻「認識の現象学」というパートが二冊に分割され、前者が文庫版の[三]、後者が[四]として出版されるという、たいへんややこしい形になっている。
内容を読む前に、もうここで頭が混乱しそうだが、ここでは[三]は後回しにして[四]の内容を少し紹介する。
どうも全四冊の中でも、この[四]が目立って売れている形跡があるのは、やはりカッシーラーと言えば(山本義隆による訳業の影響もあり)その科学哲学的な側面に広く関心が持たれてるからであろう。
ここでは、カッシーラーの議論は、いよいよというか、数学や自然科学の認識を批判するというところに入って行く。その特徴は、「概念」による認識というところにあるらしい。この「概念」ということについて、本書の第一章の中にこう端的に書かれている。

概念は、<代表〔=再現前化〕>になるために、<現前>を破棄しなければならないのだ。(p54)

難しい言い方だが、つまりは概念とは、日常の経験や知覚において感受される生々しいものを破棄し断念することで、事柄の代理・代表であることの権利を得る、ということだろう。
概念による認識は、人間の認識の発展の最も高い段階を示すものであるが、それは代償として経験や知覚からの分離を含まざるを得ないというのが、カッシーラーの基本的な見方なのだ。これはまあ、こう書くと当たり前のようではあるが、カッシーラーはこの辺の葛藤のようなことにずっとこだわっていく。
ひどい当てずっぽうだが、私はそこに、「ドイツ=ユダヤ的」とも呼ぶるような思想的潮流(それは、レッシングやゲーテから、アーレントハーバーマスにつながるものだろう)の存在と、その潮流がカッシーラーの生きた時代に置かれていた状況の困難さを、垣間見る思いがした。


さて、続く第二章では、この概念による認識についての、非常に独創的な捉え方が述べられている。
カッシーラーによれば、科学的認識以前の認識のあり方、たとえば(といっても、ここではこれしか語られてないのだが)言語的認識というものは、結局は直観との結びつきを断つことが出来ない。
ふつう、西洋的・近代的な考え方を批判する場合には、言語的であることがその特徴と見なされ、「非西洋的=非言語的」みたいに論じられることが多いのでややこしいのだが、カッシーラーの場合には、言語的認識とは(同時代に仕事をしたプルーストや折口のように)、事物や直観の世界と縁の切れない非抽象的で主観的な思考を意味しているのである。
科学的認識は、そのような認識のあり方とは明確に一線を画するものだとされる。

しかし、科学的認識が進歩し、その固有の方法的道具立てを整えてゆくにつれて、概念を直接に直観と結びつけているきずなが次第にゆるんでくる。もはや概念は事物の〈現実性〉に縛りつけられたままではおらず、〈可能的なもの〉の自由な構成へと高まってゆく。(p78)

上のくだりでは、科学的認識の方向性に対するカッシーラーのきわめて肯定的な見方が示されていると同時に、その価値が(事物の)「現実性」の呪縛から解き放たれた「可能的なもの」の領域の発見というところに見出されているらしいことが分かる。
このあたりの論述は、私には難解なところがあって十分理解できないのだが、注目されるのは、ここでカッシーラーが、「存在」という概念を、事物の世界の「現実性」や、「実在」といった事柄とは異質なものとして捉え、その存在の「可能的な」領域の探求を、科学的認識の本分と考えているらしいことである。つまり、科学とは、事物の実在や現実性に関わるものである以上に、むしろそれらとは異質な、存在の「可能的」領域にこそ関わるのだと、カッシーラーは言うのだ。

(通常の考え方では)われわれは、意識の〈内在的〉内容、すなわち直接的な感覚、知覚、直観に提示されるがままの現実と、理論が、科学的概念がわれわれを導いてゆく別種の存在、つまりその現実を越えた〈超越的〉存在のいずれかを選ばなければならないのである。(中略)だが、認識についての〈批判的〉な考え方にとっては、この二者択一はもはや通用しない。というのも、この考え方にとっては、存在するという言葉は、一般に「実在を示す述語」を表示するものではなくなるからである。(中略)むしろそれらの機能は相関的に対応しあい、相関的に補足しあう関係にある。(中略)まさしくこの種の統合こそ、そこにおいてのみ認識の〈対象〉の解明と基礎づけとが見い出されうるものなのである。(p80〜81)

つまり、認識についての批判的な考え方(カッシーラーの哲学)は、経験的領域と理論的領域との区別以前の、両者の根底にあるような領域に着目する、ということだろう。
この領域が「可能的」領域と呼ばれるものだろう。それは、何らかの意味における「実在」が問題になるのではなく、その認識の妥当性こそが問題になるような領域である。
そこでは、ある対象が実在するかどうかではなく、その対象についての認識が妥当であるかどうかの方が重要となる。対象の実在ということは、その認識がどのような領域においてなされているか(経験的か、理論的かなど)によって判断が異なるからである。
したがって、対象についての認識(判断)、たとえばその実在の是非そのものよりも、その認識の「手続き」こそが重要だということになる。「妥当性」と「手続き」とは、いずれも、この本における重要なキーワードだと言ってよい。


さて、少し端折って第四章に進む。この章では、認識の発展の段階のなかで重要な契機をなすものとして、数学的認識が集中的に論じられ、とくに現代数学にいたる数学の歴史が深く掘り下げて論じられる。こうした学問の歴史の見事な要約と分析は、世界各地の言語の多様なあり様の記述(第一巻)や、精神疾患のある人びとの病状の具体的な記述と分析(第三巻上)などと並んで、この『シンボル形式の哲学』という書物の魅力の大きな要素をなしていると言える。カッシーラーの思想の広大さや豊かさが、よく示されている部分である。
そのなかでも、とくにライプニッツにおける、記号(像)の重要性の発見のくだりは、カッシーラー自身の思想にも通じるものだと思われるので、少し引いておきたい。

だが、このように〈悟性〉こそがすべての数学的なものの出生地であり源泉であると解き明かされてみても、――ライプニッツにとって、他方では、人間認識が〈英知的〉な数学的対象の領野に住みつき、そこに確固たる地歩を占めうるのは、感性的記号の援助を拒否しない場合だけだということも、やはり確かなことなのだ。すべての人間認識の根底には、純粋理性の根源的な洞察が存する。だが、人間認識は、理性の根源的直観をさまざまな像や記号(シンボル)のかたちで把握可能にすることによって以外、それをわがものにし、それを自分のために堅持することはできない。(中略)われわれの有限な悟性は、像を必要とする悟性なのであり、それでありつづける。(p154)

そして、このライプニッツの流れを継いだカントール集合論の意義を、カッシーラーはこう述べている。

この基礎づけにおいて、認識批判的に見て本質的かつ決定的なのは、この基礎づけによってはじめて事物概念に対する関数概念の優位が全面的に承認されるという事態である。数学が数の〈根源的直観〉に還元されうるとしても、やはりこの直観は、もはやいかなる意味においても具体的事物についての直観を意味するものではなく、一つの純粋な手続きの直観として捉えられる。(p171)

事物や直観の絶対性に対して、関数(関係)と手続きの重要性が明示された、ということである。学問の歴史上のこの出来事は、「像」が「実在」に劣らない(むしろそれを打ち壊すような)効力を持って人々の心に君臨するファシズム的・大衆社会的な時代の到来と、どこかでつながっているのではないだろうか。
それはともかく、カッシーラーがここで強調しているのは、実在や現実性ではなく、可能性にこそ対象の妥当性の根拠を見いだすという、数学的認識の特異な性格だ。

(前略)ある数学的対象の妥当性を決定するのは、その現実的な構成ではなく、おそらく可能的な構成、つまりその〈構成可能性〉だと言うことができよう。(p175)

認識批判が、〈一般的なもの〉の信用に異を唱えたり、それをゆさぶろうと試みることはありえない。認識批判がしなければならないのは、どうすれば一般的なものの信用が正しい仕方で基礎づけられるかという問いを立てることだけである。(中略)少なくとも数学は、そうした単なる代理的な価値をなしですませることはけっしてできない、(後略)(p177〜178)

何度も繰り返すが、カッシーラーは、こうした数学的・概念的認識(それは自然科学的認識の核をなすものでもある)の現実離反的な性格を、精神の自由を体現するものとして、あくまで擁護するのである。
いやそれどころか、数学的認識の真の意義は、それが経験的現実から隔絶した「形式」の世界の中で完結していることにこそあると、カッシーラーは考えているようなのだ。

ここでは対象は、数学的集合そのものの諸条件以外のいかなる条件にも服していない。対象が存在し存立するのは、数学的綜合が妥当するかぎりにおいてなのである。そして、この妥当性について判断を下すのは、外部にある事物の〈現実性〉やその超越的〈現実性〉ではなく、もっぱら数学的諸関係そのものの内在的論理である。(中略)理想的な形象はいわば「諸体系の体系」をなしていることになる。(p220)

だが、その一方で、カッシーラーはここでも、直観的・経験的な領域と、理論的・形式的な領域との相互補完性を強調している。

われわれが〈意味〉を捉えるのは、〈直観〉へ遡行的に関係することによってでしかありえないし、――われわれに直観的なものが〈与えられる〉のは、意味へ〈眼を向ける〉ことによってでしかありえない。(中略)シンボル的なものはむしろ、内在であると同時に超越なのである。(p200)

これは後述するかも知れないが、直観(経験)の次元と、意味や概念や理論の次元との関係をどう捉えるかということは、カッシーラーの思想の中心的なテーマになっているのではないかと思う。
彼の言う「シンボル的なもの」の領域は、そこの分離を統合するためのものとして要請され、見出されているものだと考えられる。
だが、直観的(経験的)でも概念的でもない、それらを統合するような形式的な領域というものが、それは「実在」とは異なる領域だとされているのだから、やむをえないのかもしれないが、私には、いまひとつよく掴めなかった。


さて、第四章では数学的認識がテーマとなったのに続いて、第五章では自然科学的認識の特性が論じられる。それはまず、次のように定義される。

けっして直接与えられるものではなく、ただ要請され探しもとめられるだけのこの規則こそ、自然科学的思考の独自な〈事実性〉を単なる事実認識のすべての他の形式から区別する特徴でありつづける。(p244)

自然科学的認識が追い求めているのは、経験される事物や現象そのものではなく、規則であると、カッシーラーは言う。この断定には、いささか面食らう。
この定義の意味するところは、自然科学の知が持つ根本的な方向性は、現象の考察を通して、
ひたすら規則という(物事の)「一般性」を追求していくことにあるのだ、ということである。言い換えれば、自然科学は根本的には、一般的なもの(規則)以外には関心を持たない。

物理学の方法論にとって問題なのは、むしろ色や音、触感覚や温感覚といった感性的諸現象からなる現実を全体としてある新たな精神的尺度に関係づけ、この関係の力を借りてそれを考察の他の次元へ高めることである。(p249)

カッシーラーは自然科学的認識の根幹には、数学的認識と同様のものがあると考えるのだが、それはこの認識の動向を、ひたすら一般的なものを追い求めて、物事を綜合し統合していこうとする、理性に内在する働きの高度な発現として捉えているということだ。

つまり、この手段は、純粋な数学的思考の形象と同じ領域に属しているのである。(中略)それは、対立しあうものをたがいに結びつける真に綜合的な作用なのである。物理学の真の概念や物理学の基本的判断のいずれにも、こうした「対立物の綜合」がふくまれている。というのも、つねに問題なのは二つの異なった多様の形式をたがいに関係づけ、いわばたがいに浸透させあうことだからである。(p251)

経験的直観こそ、理論を真に実らせる境域(エレメント)であることは、繰りかえし証示されてきた、――しかし、他方で、このように実らせる過程は、理論そのものの発芽力と生長力をもった種子をも必要とする。直観世界との接触によって、思考は一途におのれ自身を越えてゆくように駆り立てられるのではなく、むしろおのれ自身のうちに、おのれ自身の〈根底〉のうちにいっそう深く立ちもどるように導かれるのである。(p257〜258)

こういうところは、カッシーラーは非常にヘーゲル的だという印象を受ける。それは、一般的なものに向って上昇し、かつ己自身へと還帰していく、精神(知)の内在的な力と方向性を第一義のものとし、現象(直観世界)の多様性や具体性は、結局はこの知の働きにとっては二次的なものとして切り捨てられてしまう、という印象である。だが、ヘーゲルの『精神現象学』についてもいくらか言えるように、カッシーラーの思想の魅力も、その切り捨てられるべき部分への繊細なこだわりにこそあると思える。
さて、続いてカッシーラーは、自然科学の中でも特に物理学に焦点を合わせ、それと数学的認識との差異に注意を促す。
それは、数学と違って物理学は自然界の現象を対象にするわけだが、そのことはいわば、一般性を追求する思考を自然界に当てはめていくということである。それが可能になるのは、対象(自然)を事物としてではなく、あくまで関係の相において捉える場合だけである、というのがカッシーラーの考えだ。

数学は、純粋に思考的なものが直観的なものから分離されてあること、つまり両者のコーリスモス〔分離〕に甘んじる、――だが、物理学は両者の間に〈分与〉の関係、メテクシス〔分与〕の関係を要求する。この分与が可能になるのは、〈所与〉そのものを要請されたものの相のもとに見ることに成功する場合だけである。(p281〜282 ただし、ギリシャ文字は省いた)

(物理学においては)個々の質の圏域は、それらが相互に単に切り離され併存している状態で捉えられてはならないのであり、法則的に規定可能で掌握可能な統一体として考えられねばならない。プランクは、(中略)まさしくこの決定的な方法上の進歩が達成されたのは、ほかでもない、理論的思考が、最初感官感覚の直接的内容に結びつけられたり、この領域を支配している分節に結びつけられたりすることによって課せられていた制限から次第に解き放たれることによってなのだ、と指摘している。(中略)ここで、物理学の言う意味での〈客観〉と感性的知覚に与えられる単なる〈事物〉とを分かつ境界線が引かれる。(p285〜287)

カッシーラーによれば、こうした、あくまで関係の相のもとに自然を捉え、そのことによって規則という形で一般性を追求していく(より高度な一般性に向って、どこまでも現実を綜合し統合していく)、物理学の(また自然科学的認識全体の)基本傾向が、もっとも明確に現われているのが、(十九世紀以後の)「現代物理学」なのである。

十九世紀物理学の全精神構造を一言で示そうと思うなら、それをイメージとモデルの物理学とではなく、原理の物理学と呼ばねばならないであろう。真の論争、方法に関する本質的論争において問題になるのは、イメージではなく原理なのであり、つまりは、さまざまなかたちの自然法則を、包括的な最高の規則に統合することなのである。(p337)

この傾向を受け継いだ、カッシーラーの同時代の「現代物理学」の重要な特徴は、「場の物理学」という言葉によって表される。

というのも、いまやもっとも重要な歩み、つまり物質の物理学から純粋な〈場の物理学〉への移行が果たされているからである。われわれが〈場〉という名前で呼んでいる実在は、もはや物理的事物の複合体と考えられてはならず、それは物理学的諸関係の総体を表現するものである。(p345)

つまり、物質は場と並ぶ一個の物理的存在者とは思われなくなり、場に還元されてしまい、物質とは「場の産物」だということになる。(p347)

私は、このくだりを読んでいて、たいへん意外に思った。
というのは、「場の思想」とか「関係の思想」というのは、西田や和辻、田辺元などが想起されるように、なんとなく東洋的・仏教的なものに由来する思想のように思っていたのだが、カッシーラーの言う「場」や「関係」という概念は、それとは真逆の、近代科学の一般化・抽象化の傾向を突き詰めた所に見出されたものらしい、と分かったからだ。
まさに、近代的な科学や思想の動向の最先端のところに、しかも、それが本質として有する「事物の消去(否定)」とでも呼ぶべき傾向を体現するような概念として、「場」や「関係」ということが出てきている。

こうして物理学は、〈表示〉の領域を、いやそれどころか表示可能性の領域一般をさえ決定的に放棄してしまい、抽象の領野に踏みこむことになった。イメージによる図式機能が、原理によるシンボル機能にその座を明け渡すことになったのだ。(中略)いまや物理学は、もはや内容をもった現実としての存在者を直接取り扱うことはせず、それが扱うのはその〈構造〉、その形式的な仕組みなのである。(p348)

われわれが究極の物理的実在として定義しているものは、あらゆる事物性の見かけをぬぐい去っている。(中略)われわれが対象と呼ぶものは、(中略)思考によってのみ捉えうる統一点なのである。(p357)

こうして、自然科学的認識の基本傾向を一般性のあくなき追求として捉えるカッシーラーの論述が、最後に行きつくのは、彼の同時代における最先端の達成である、アインシュタイン一般相対性理論だ。それはまさしく、「一般性」へと向かっていく知の傾向の、(その時点では)もっとも純化された姿として捉えられることになる。

そこ(一般相対性理論)で追求されている目標は、ほかでもない、観点の特殊化の方向はますます〈度外視〉してゆき、客観そのものにではなく、むしろそれを考察する際の偶然の観点に属しているようなものはすべて、どこまでも排除してゆこうというところにある。(p363〜364)