『国家の神話』


年明けに古本屋で偶然この本を見つけ、ちょうど同じ著者の『シンボル形式の哲学』を読み始めたところだったのだが、中断してこちらを読んだ。
この本は、十八までの章と短い結語からなっている。現在の状況との関わりという意味では、第一章と第十八章に書いてあることが特に重要だと思うのだが、それを含めて、ざっと全体をまとめてみたい。
本が書かれたのは、第二次大戦中の1943年頃であり、題名から分かる通り、ナチスの存在を念頭において書かれた本である。


第一部(第一章から第四章まで)では、これまでの神話研究の成果を踏まえて、神話をどのように理解して向き合うべきかということが論じられる。
特に、神話の社会的機能を論じた第四章が重要だと思う。
カッシーラーは、神話の機能が「儀式」と不可分に結びついていることを強調する。儀式による象徴的表現と結びつくことで、神話は人間の情動のある部分を異様に強める。そこで生じる効果は、共同体との一体化による「死の乗り越え(隠蔽)」ということである。
古代ギリシャディオニュソスの神話に触れながら、カッシーラーは書く。

一つの神的な存在が、悪の力、すなわち、ゼウスに対するティタンたちの叛逆によって、この世の多数の事物や多数の人間に分散された。しかし、それは失われたわけではなく、その本来の状態に回復されるであろう。これは、ただ人間がその個性を犠牲として捧げ、自己と永遠的な生命との結合との間に介在するあらゆる障害を打ち破るときにのみ可能になるのである。(p51)

人間が死すべき存在であることに集約される、生の不安は、共同体の神話が語る「永遠の生命」との犠牲的一体化によって克服される、と感じられる。
今日の国家も、このような神話の機能を利用して、「不安」にかられた人々を結集し動員しようとするであろう。近いところでは、ある国の大統領が、同国のそれこそ神話的なイメージを持つ元大統領の名前がついた空母の艦上で、兵士たちと国民に「対テロ戦争」への参加を鼓舞するという「儀式」を行ったが、それによって、社会の諸変化のなかで「不安」にかられている人々の心情を、「国家」との犠牲による一体化という方向へと収斂しようとしているわけである。
それは、不安に脅かされる有限な存在であるという私たちの生の事実性の、抑圧であり隠蔽でもあるのだが。

死は人間生命の消滅を意味するのではなく、それはただ生命の形式における変化である、と神話は教えた。(中略)神話的思惟においては、死の神秘が《形象に変えられ》、そしてこの変形によって、死は甚だしく耐えがたい自然的事実たることを止め、それは理解でき、堪えうるものとなるのである。(p58〜59)


第二部(第五章から第十四章まで)では、西洋の政治思想史における「神話」の力との闘争の過程が描かれる。なぜ神話と闘うのかというと、それが人間の理性と自立を脅かす強大な力を持つものだと考えられたからだ。
では、ここでいう「理性」とは何か?実は、それが問題になる。
このことを考えるにあたって、古代ギリシャの思想家たち、とくにソクラテスプラトンの神話に対する態度は、きわめて示唆的だ。
ソクラテスは、神話を克服するためには、それを外在的に「解釈」したり変形することで「合理化」しようとするようなソフィストたちの試みは徒労におわる他ないものだと述べ、むしろ、われわれは「自己認識」の力を育むことでしか、神話に対抗することは出来ないのだという、ある意味、「神話との対決」のアルファでありオメガとも言えるような態度表明を、すでにこの時点で行っている。
カッシーラーは、プラトンの『ファイドロス』の中のソクラテスの次の言葉を引いている。

(前略)そこで私は、これらのことを念頭から捨てて、それらについては慣習的な信仰を受け入れながら、私が今も言ったように、私はこうしたものでなく、私自身を考察する。私がテュフォンよりもさらに複雑で凶暴な怪物であるのか、それとも生れながら神的な、穏かな賦性を与えられた、よりおとなしくて単純な被造物であるのかを知らんがために。(p71)

これに対してプラトンは、ソクラテスのように個人倫理の問題としてだけ神話の力を捉えたのでは不十分であると考え、政治制度や教育の場における、神話との徹底した対決が必要であると明言した。

政治制度において神話を黙認するならば、政治的および社会的生活の再建や改革にたいするわれわれの希望はことごとく失われてしまう、と彼は断言した。(中略)神話的思惟は、それより他の、またはより高い権威を決して承認しない。(p86〜87)

カッシーラーは、『国家』に書かれている有名なプラトンの「詩」(芸術)に対する排斥も、ほんとうは詩を標的にしたものではなく、詩に含まれている神話的想像力こそを恐れたのだとする。
詩(芸術)と共に、神話は、合理的な国家秩序の脅威であると、プラトンは考えたのだ。
ここでカッシーラーは、プラトンにおける「理性」や「合理性」の本質を捉えることから、彼の神話批判の意味を明らかにする。その本質とは、弁証法ということである。

つまり限定なきものを限定し、無限なるものを一定の限度にひき戻し、限界なきものに限界を置くことが弁証法の課題なのである。この哲学および弁証法の定義を認めるならば、プラトンが、なぜ神話を彼の『国家』、すなわち彼の教育体系から放逐せねばならなかったかが明らかになる。世界のあらゆるもののなかで、神話はもっとも放埓な、極端なものである。それはあらゆる限界をふみ越え、あらゆる限界を無視する。つまり、それは、その本性と本質そのものにおいて常軌を逸した法外なものである。この放埓な力を人間の世界や政治の世界から追放することが、『国家』の主たる目的の一つであった。プラトンの論理学と弁証法は、われわれの観念や思想を分類し、体系化する仕方、つまり正しい区分と細分の仕方を教えてくれる。(p93)

弁証法的理性とは、無限なものや法外なものの抑制であり、プラトンはこのことを、その国家論の基盤とした。神話に対立する理性とは、そういうものなのである。
だがそのことは、プラトン自身が、そうした「法外な力」を自分の中にまざまざと感じていたということをも意味する。


ところで、ソクラテスプラトンらに代表される古代ギリシャの政治哲学は、市民たちの「理性」に重きを置いたことと、いわゆる「権力国家」観(ソフィストは、こちらに属する)に対抗する「正義」に基づく国家という重要な理念を提示したところに特徴があったが、大きなものが欠けていた。それは、「平等」の理念である。
そこに、倫理的存在としては人間は皆平等、ということを唱える思想が登場し、広まった。ギリシャに端を発し、ローマで政治思想として大きな勢力となるストア派の考えである。
この思想が、西洋の古代思想と中世思想とを結ぶ重要な絆となり、さらに実は、近代以後の政治思想にも決定的な影響を与えていくのだ。
その一方で、中世の教会権力による抑圧に抗して、人間の理性の自立を守ろうとする戦いが続けられていた。
だが、中世的な秩序の周縁を告げたものは、政治思想の上では、マキャヴェリの出現である。
マキャヴェリは、中世という暗黒の(反理性的)権力を否定したのみならず、中世までは存在していたコスモス(宇宙)に対する人々の感覚をも一刀両断にした。そして、コスモスの感覚に通じていると思われる人間の情動の世界(それは、神話が生れ働きかける領域でもある)を、政治的な技術(「統治術」)の行使の場に変えてしまったのである。
カッシーラーは、マキャヴェリを、自然科学におけるガリレオと並ぶルネッサンスの代表的思想家と見なし、三つの章をそっくり彼に割り当てている。

世俗的権力の独立性と主権とをもっとも強く主張するものでさえ、(教会が唱える)この神政的原理をあえて否定しようとはしなかった。マキャヴェリについていえば、彼はこの原理を決して攻撃しないで、あっさりとそれを無視する。彼は自分の政治的経験から論じているが、その経験は権力、つまり現実の実際の政治権力が決して神的なものではないことを教えたのであった。(p176〜177)

マキャヴェリは、通常のスコラ的論議の方法には従わない。彼は政治的な学説とか、格率について決して論じない。彼には政治生活の諸々の事実が、唯一の確実な根拠のある議論である。階層的・神政的体系を破壊するには、《事物の本性》を示すだけで十分である。(p177)

したがって、マキャヴェリの体系においても、実際、宗教は必要欠くべからざるものになる。しかし、それはもはや目的自体ではなく、政治的支配者の掌中における一個の道具にすぎなくなった。(p180)

マキャヴェリとともに近代世界が始まる。望まれた目的は達せられ、国家はそのまったき自律性を獲得した。しかし、こうした帰結は高く購われねばならなかった。国家は完全に自立するが、同時にまったく孤立させられる。マキャヴェリ思想の鋭い刃は、以前の時代に国家が人間存在の有機体全体に結びあわされた諸々の糸をすべて切断してしまった。政治的世界は、宗教あるいは形而上学のみでなく、人間の倫理的・文化的生活のあらゆる形式との連関をも喪失した。それは空虚なる場所のなかに孤立する。(p182)


だが、こうしたマキャヴェリの権力的・「統治術」的な国家観が、ただちにそれ以後のヨーロッパの政治思想において(現実においてはともかく)、主流となることはなかった。
マキャヴェリに続く、十七世紀、十八世紀の西洋の政治思想の主流は、「自然法的国家理論」と呼ばれるもので、ホッブスを除くほぼすべての論者が、その立場をとった。
国家には犯すことの出来ない「個人の自由」の領域というものが存在し、国家はそれ自体が目的ではなく、この領域のための一つの道具に過ぎないという、この理論が、マキャヴェリ的な権力国家論の蔓延に対する歯止めになったとカッシーラーは見るのだが、この自然法的国家理論というのは、実は先に述べたストア派の倫理主義的思想に源を持つものである。
では、この古来知られてきた特殊な思想が、この時代に突如として大きな政治的影響力を持つことになったのは、どうしてだろう?これは、本書のなかでも、ユニークで重要な問いかけの一つだと思うのだが、カッシーラーの答えは、こうである。
それは、ルネッサンス宗教改革によってもたらされた、「中世文化の統一性と内的調和」の解体に理由がある。それまで保持されていた普遍性の解体に際して、それに代わる別の原理が必要とされたのである。

真に普遍的な宗教や倫理の体系があるべきだとすれば、それはあらゆる国民、あらゆる信条、あらゆる教派によって認められうる原理に基づくものでなければならなかった。かくして、ひとりストア主義のみが、こうした課題に堪えるもののように思われた。それは《自然》宗教と自然法体系の基礎となった。(p221)

自然法理論がストア派から継承して、近代の政治思想を基礎づけた、その倫理主義。これは非常に大きな功績であるとカッシーラーは述べており、実際そうなのだろうが、ストア派的な倫理主義ということになると、問題もある。
というのは、ストア派の説く倫理的平等というのは、たしかにギリシャのような身分差別を前提にしたものではないが、社会的平等を要請するようなものではない。むしろ、そんなこと(現実的不平等)を問題にすることは愚かだ、という話である、後期ストア派の代表的思想家マルクス・アウレリウスは、ローマ皇帝でありながら倫理的平等の思想を追求したが、別に帝政に反対したわけではない。
だがそれでは、実際に皇帝が居り、奴隷も居り、支配される異民族も居るというような社会で、まともな倫理的平等だの、自由な精神だのというものを考えたり論じたりすることなど、本当に出来るのか?


そういう疑問もあるわけだが、またこういうこともある(カッシーラーが引っかかっているのは、こちらの方であろう)。
特に十七世紀の思想家たちは、強固な信念をもった合理主義者であり、人間の「情動や激情の生活」というものを、具体的に捉えて働きかけるという発想を持たなかった。また十八世紀の啓蒙主義は、神学(教会権力)の支配を拒絶すると同時に、デカルトライプニッツなど前代の思想家たちにはまだ見られた形而上学的思弁に対する関心を失ってしまい、すべての思想的エネルギーを政治的闘争に傾注した。
つまり、これら西洋近代の自然法的・啓蒙主義的政治思想においては、コスモロジーや神話が育まれるような、人間精神の非認識的・情動的な部分が、ほとんど顧慮されなくなってしまった。
こうしたことはやがて、ロマン主義による反動を招き、ファシズムを含む全体主義の時代の到来につながるだろう。そして、(後にこのことにも触れられるが)いわば「神話の復権」としての全体主義は、形を変えて、高度資本主義下の私たちの生活こそを覆っている、と考えられるのである。
カッシーラーは、カントの流れをくむ啓蒙主義的思想家と見なされているが、同時に、人間の心の(認識以外の)広い領域に関心を持つロマン派的思考の長所をも、色濃く受け継いでいる。
そこには、啓蒙主義が切り捨てたもの(たとえば、神話の領域)に対しても、その弁証法的精神によってアプローチしていこうとする意志を見ることが出来る。こうした領域へのアプローチを、近代の初頭において行ったのはマキャヴェリであり、以来それは統治者たちの技術としては練り上げられてきたはずだが、啓蒙や解放のための武器としては(ロマン主義への回収の道筋以外は)、ほとんど探求されていないのである。


第三部(第十五章から第十八章までと結語)では、二十世紀における神話の復権の代表例というべきナチズムに直接的な影響を与えたと思われる三人の思想家、カーライル、ゴビノー、それにヘーゲルが論じられた後、「現代の政治的神話の技術」が分析される。
カーライルについては、当然その英雄崇拝の思想がテーマとなるのだが、カーライルに両義的な見方をするカッシーラーは、特にその思考が、ピューリタニズム的な善悪二元論に傾きがちだったことを問題にしている。
レイシズムの先駆者と呼ぶべきゴビノーについての論は、非常に興味深いものである。ゴビノーは零落した名門貴族の出身であり、その言説が身分制の肯定や、その拡大としての白色人種優越論に至ったことは、特別に珍しいケースと言えず、それだけでは社会総体を危うくするものとまでは言えないと、カッシーラーはいう。
ゴビノーの言説の最大の問題点は、それが「人種以外の価値」に対して破壊的な効果をもたらすということである。

それは他のあらゆる価値を破壊しようとする企てである。(p307)

他にどんな属性をもち、どんな努力をしていても、その人が「劣った」人種に属するというだけで、その人の仕事もその人の存在も価値のないものだとされる。
それによって破壊されるのは、個々の価値という以上に、人間的な諸価値に対するわれわれの信頼であるというべきだろう。
しかもそのことをゴビノーは、信じがたいまでに幼稚で錯誤に満ちた論法によって説明し得ていると確信し、その言説を繰り返し語り続けたのである。

たしかに、ゴビノーは読者を欺こうと考えたのではなかったが、しかし、彼は絶えず自分を欺いていたのである。(p303)

まことに奇妙なことにも、まさにこうしたナイーブな性格こそが、ゴビノーの理論に、その大きな実践力と影響力とを与えたのであった。こうした循環論法的な定義によって、その理論は、ある意味において、不死身のものとなった。ひとは分析的判断に反駁すること、つまり合理的な、または経験的な証明でそれに反駁を加えることはできないのである。(p315)

この反撃困難な「不死身」さこそ、神話的思惟というものの特徴であろう。啓蒙主義者が語るような「人間性」や「理性」に対する不信の感情は、知らぬ間に自我の内面でその水位を上げ、いつしかすっかり私たちを飲み込んでしまうのだ。
ゴビノーの言説は、神話の現代的な普及(蔓延)のあり様を、よく示すものだといえる。


二十世紀における、神話的なものと国家との特異な結びつきに関しては、ヘーゲルの政治哲学ほどに決定的な影響を与えたものは無いと、カッシーラーは述べる。
ヘーゲルは、彼のいわゆる「客観的精神」の具現を、何らかの理想的世界にではなく、現実の政治的歴史のただ中に見出そうとした。これはヘーゲルにとって、「感性」界(歴史)と、「叡知」界(イデア、理念)とを根本的に区別する、プラトンからカントにいたる形而上学的思考全体を乗り越えるものだった。
フランス革命の成り行きが示したように、現実の歴史は、常に理想を裏切って展開するのだが、ヘーゲルは、その現実のあり様にこそ、「理性の具現」を見、「真の倫理的実体」を認めるのである。
それは、フランス革命におけるジャコバンの恐怖政治を肯定するというようなことではない。そういう考え方は、むしろカントがとったものだ。啓蒙主義者カントは、フランス革命がどれほどの悲惨を帰結したとしても、その目的の偉大さのゆえに革命は絶対に正しい、と言い切ったのである。
これに対しヘーゲルは、啓蒙と革命が持つその破壊性を非難する。彼にとっては、理念はどこかわれわれが触れえない場所に存在するものではなく、ただ過酷な政治的現実の展開そのものにおいてだけ見出せるものだった。

彼(ヘーゲル)がカントやフィヒテ、さらにフランス革命において反対したところのものは、彼らによって王位につけられ布告された自由の理念が、《単に形式的なもの》にとどまったということであった。この《形式性》とは、どんな意味であろうか。それは思惟が自己を見出し主張するにあたって、現実界との接触を見失うにいたったということを意味する。現実界とは歴史的世界のことであるが、しかもフランス革命がなしえたすべてのことは、事物の歴史的秩序を否定し破壊するということであった。そのような疎隔を、《現実的なもの》と《理性的なもの》との真の宥和と考えるわけにはいかない。事物の理想像、単に《あるべき》姿を歴史的世界にたいして描いてみせることは、哲学の課題ではありえない。そのような観念論は空しく、また無益であろう。したがって、ヘーゲルは《客観的》観念論を奉ずるものと公言するが、それは、諸々の理念があたかも人間の脳裡にまつわるにすぎぬもののようには考えない。彼は、そうした理念を現実の中に、すなわち歴史的事件の行程のうちに求めるのである。(p358〜359)

こうして、いま現にある、目の前の過酷な政治的実体、すなわちプロイセン専制的国家権力こそが、理念(精神)の唯一の具現だということになる。
ここに、現存の国家を道徳を超越する存在と規定して、自然法国家理論を根本的に否定する、ヘーゲル独自の国家絶対主義の思想が生じてくる。それこそが、20世紀の「全体主義的国家理論」を本格的に準備したものだと、カッシーラーは見る。

この新しい評価によれば、国家には、もはや何らの道徳的義務も存在しない。道徳性は個人的意志には妥当するが、国家の普遍的意志には妥当しない。国家にとって何らかの義務があるとすれば、それは自己保存の義務である。(p350)

ここに、第四章で触れた「共同体の永遠の生命」の誘惑や、プラトンが深く警戒した「無限なもの、法外なもの」の、つまりは神話的なものの威力が、眼前の権力国家という形態をとって立ち現われていると見ることが出来るだろう。
つまり、たまたま国家という形態をとってはいるが、ここで起きていることの本質は、「神話的なもの」の威力による、理性的(弁証法的)世界の席巻だということになる。
ヘーゲルが「精神」の具現化される場所と考えたのは、現実の権力闘争の場であって、その集約が国家である。この意味で、彼は欲望のぶつかり合い、権力闘争を肯定した。その眼差しは、道徳に優位する「強者」たちの「徳」を称揚したマキャヴェリのそれと同様であり、ニーチェの「非道徳主義」などよりもはるかに現実的である。
ナチス(あるいは全体主義的国家理論の総体)を産み出した大思想を一つ上げるとするなら、
それはニーチェではなくヘーゲルだというのが、カッシーラーの考えである。
ここに見出せるのは、啓蒙の光による抑制を失って、神話的なものの威力(権力是認)に飲み込まれた、弁証法的理性の残骸であるというべきかもしれない。


いよいよ、「現代の政治的神話の技術」と題された第十八章に至る。

人間の社会生活が危機におちいる瞬間には、つねに古い神話的観念の発生に抵抗する理性的な力は、もはや自己自らを信頼しえない。この様な時点において、神話の時期が再び到来する。なぜなら、神話は実際に征服され、隷属させられてはいないからである。神話は暗黒の中にひそみ、その時期と機会とを待ちながらつねに存在している。この時刻は、人間の社会生活の他の拘束力が、あれこれの理由でその力を失い、もはや魔力的な神話の力と闘うことができなくなるや否や、直ちに到来するのである。(p370〜371)

第四章に書かれていたように、神話は、不安に駆られた人々が、共同体の提示する「永遠の生命」という幻想に同一化して、犠牲的な死という仕方で自己の有限性から逃れようとする願望と結びついている。
そこから、神話的機能の一つの形態としての国家というもの(権力国家)が生じてくる、という見方も出来るであろう。
このような願望は、一見近代的・理性的に思える私たちの社会生活の奥深くにこそ潜んでいて、その社会が何らかの脅威にさらされているという人々の危機意識の昂揚に乗じて、突如としてその姿を現わしてくるものなのである。
カッシーラーが語っているのは、この「内なる神話」の魔力だ。
政治権力は、特にマキャヴェリ以降、人々の心の奥深くに存在するこの神話的なものの力への働きかけの技術を磨き上げてきた。
現代におけるその特徴について、カッシーラーはこう述べている。

さて、現代の政治的神話は、まったく異なった仕方で事を始めた。それはある特定の行動を要求したり、または禁止したりすることからは始めなかった。それは人々の行動を規制し、統制しえんがために、それらの人々を変革しようと企てたのであった。政治的神話は、丁度蛇がその獲物に攻撃を加えるまえに、それを麻痺させるのと同じように行動した。人々は何ら真剣な抵抗をすることなしに、その犠牲者となった。彼らは実際に起ったことを自覚するまえに、すでに征服され、服従させられていた。(p379)

現代の政治的神話は、その活動を始めるまえに、こうしたすべての理念や理想を破壊した。それは、この側面からの反対を少しも恐れるにはおよばない。(p380)

私たちは、気がついた時には、すでに政治的神話のとりことなっていて、犠牲的死や殺人が、当然のことであるかのように思わされている。
そうなる過程に、特段の抵抗が生じるということは、現代社会ではほとんど無い。犠牲的死や殺人は、禁止や強制の結果ではなく、むしろ自己の「自由な」選択によるものと感じられているのだ。
これが現代の私たちの社会における、政治的神話の特徴である。


政治権力に操作されて、常に私たちを内側から飲み込もうとするこの神話の魔力に、私たちはどう抗うことが出来るだろうか?
カッシーラーは、むろん啓蒙主義の立場に立つ人ではあるが、啓蒙主義を含む近代の理性というものが、神話という人間の心の深層を直視してこなかったことに、根本的な問題を感じていたようである。
それは、弁証法的な理性のあり方としては、欠陥と呼べるものだったのではないか。
つまり、かつてプラトンが神話を追放しようとしたのは、神話の機能が「無限なもの」「法外なもの」の支配をもたらし、弁証法的理性の行使を不可能にすると思われたからだった。だが、啓蒙が自己(認識)の領域に外部のあることを認めないのであれば、それは啓蒙自体が、制限を失って「法外なもの」(神話的なもの)に転じるということである。啓蒙は、弁証法から逸脱する。啓蒙は、認識の力が及ばないような人々の精神の領域を、自身が切り捨てたことをすっかり忘れ、そういう自分自身を正当化しようとする。そうすることで、啓蒙はその意志に反して、「神話的なもの」の不死身の肉体を、啓蒙による破壊に反発する他者の内部にも、また私たちの不安な心の中にも、ひとしく育んでいくことになる。私たち自身が、やがて啓蒙とは程遠い、国家的な(もしくは別の形態の)神話の中に自分自身を見出す羽目になるのである。
最後にカッシーラーが語るのは、神話的な力という、この脅威に満ちた私たちの深層(それは、私たちの有限性と結びついているのだろう)を直視する必要である。

神話は、ある意味で、不死身のものである。それは合理的な論証を受けつけないし、三段論法によって反駁されることもできない。(中略)敵を知るというのは、その欠点や弱点を知るのみでなく、またその強さをも知ることを意味している。われわれはみな、従来、この強さを軽視しがちであった。(中略)われわれは敵と戦う方法を知るために、それを面と向って見なければならない。(p392)