今村仁司『アルチュセール全哲学』

アルチュセール全哲学 (講談社学術文庫)

アルチュセール全哲学 (講談社学術文庫)

2007年の出版だが、97年に出版されたものの文庫版。



著者はこの本で、アルチュセールが20代の終わりに書いたヘーゲル論を重視し、後年の彼の思想のさまざまな意味での原型や原点を見出せると語っている。
重要なことのひとつは、ヘーゲルによるカント批判であり、それは後年のアルチュセールイデオロギー論につながるものであろう。そういう視点を、今村のこの本は、われわれに提示してくれるのである。
本書によれば、アルチュセールヘーゲルの中に見出した、カント及び啓蒙主義批判の要点は、「真空性」(「空虚性」)ということに関わっている。

ヘーゲルはこの真空性のなかに、真空を充実させ埋めようとする啓蒙的自己意識の憧憬(Sehnsucht)ないし欲望を洞察する。(p67)

この観点から見れば、ヘーゲルの『精神現象学』は、この意識の自己獲得の願望に等しい憧憬と欲望を「意識の経験の学」のなかに組み込んで、そしてつまりは意識の真空性を意識の不可欠の条件として承認しながら、啓蒙的自己意識の真空を乗り越え、真実の自己意識の成就をめざす試みであると解釈できる。(p68)

ヘーゲルは真空や空虚をそれ自体として斥けるのではない。ヘーゲルは人間の自己意識が必ずかかえざるをえない真空性を、一種の存在論的真実ないし必然性として積極的に受けとめる。ヘーゲルはこの真空性を自己意識の原動力に組み替える。(p同上)


また、

ヘーゲルにあっては、疎外されざる思考があらかじめあって、しかる後に疎外されるというのではない。そうではなく反対だ。すでにプラトンが洞察していたように、そしてそのプラトンを踏まえて、ヘーゲルは思考自体は本性的に疎外されている、したがって哲学は真空であると主張しているのである。欠如と真空「である」からこそ、思考は思考の運動を開始する。思考とはそれ以外にない。これがヘーゲルの教えである。(p109)


今村の見方は、元々は「完全なヘーゲル主義者」として出発したアルチュセールが、やがて思想家としての成長のなかで、ヘーゲルから自分を切断し、同時にマルクスヘーゲルから切断するという二重の歩みを進めていった、ということになるのだろう。
その歩みは、最終的には、マルクスからのアルチュセールの離脱、という所まで行くだろう。


だが本書によると、アルチュセールヘーゲルを批判すべき対象として見出したとき、それは観念論ないし主体主義的な思考の代表としてであったわけだが、ヘーゲルからマルクスが、またこの二人からアルチュセールが受け継いだ最も重要なものは、それとは異なるものだったのではないだろうか?
そのことがよく自覚されていれば、アルチュセールの思想の歩みと、彼の晩年の思想のあり方とは、やや違ったものになったのではないか(それはもちろん、アルチュセールの問題というより、われわれ自身の課題なのだが)。今村の語っていることに(もしかすると)反して、そういう思いを抱かせられるのも、また本書の力の故だろう。
たとえば、上述のヘーゲルによるカント批判は、今村によって見事に記述される次のようなアルチュセールイデオロギー論の骨子につながるものだろう。

(前略)世界を生きることはイデオロギーを生きることであるというテーゼを、後の議論を少し組み込んで語ると、およそ以下のようになるだろう。
 世界を生きるとは、人間と世界との現実的関係(人間の生存条件)を想像的に生きることである。イデオロギーは現実的世界関係を想像的に転換し、そうすることで人間が現実の世界を生きうるようにする。想像的関係は単純に否定的な事態ではなく、そのなかに現実的関係の真実を包摂している。想像によって変形されているにせよ、現実の関係はたしかにイデオロギーによって表現される。人間はそうした回り道によってしか、希望、期待、意志あるいは過去への憧憬を表現できない。そこに、人間がいつも神話を、芸術的な形や宗教的な形で生みだす理由があるのであり、神話的なものがもつ魅惑的な力もそこから出てくる。だから、単にイデオロギーをマイナスの幻想として拒絶するのは間違いである。


 (中略)しばしば誤解して言われたことだが、アルチュセールは「科学」と「イデオロギー」を水と油のように相いれない二分法としてたて、科学の名の下にイデオロギーを断罪したと受けとめられているが、それはまったくの誤解である。むしろ反対に、彼は人間が生きるために不可欠の条件としてのイデオロギーを語ったのであり、さらに科学的認識はイデオロギーの内部から生成するほかはない必然性を証明しようとしたのである。
(p188〜189)

つまりヘーゲル(同時にマルクス)は、また彼を受け継いだアルチュセールは、イデオロギー(真空)を幻想であるからといって断罪するのではない。
そうではなく、それが幻想であることを自覚しながら「イデオロギーを生きる」ことの不可避性を語るのである。


そうしたアルチュセール(ヘーゲルマルクス)の思想の核心部が、よく示されていると思うのは、「問いの構造」(プロブレマティク)や「認識論的切断」というアルチュセールの重要概念をめぐる、今村の次のような文章だ。

一個の新しい思想の生誕は、古い「問いの構造」から別の新しい「問いの構造」に移行することである。切断とは以前の構造を破壊するのではなく、端的にそれと手を切り、見捨て、別の構造へと乗り換えることである。精神と思考の領域では、物の領域とは違って破壊などはありえない。古い問いの構造は、新しい問いの構造が登場してからも残存し続ける。そこで新しい構造と古い構造との競り合いが生まれ、少しずつ古い構造の作用の範囲が制限されていく。だから切断は一挙に新しい思想を作り上げるのではない。後戻りできない切断が生じた後でも長い移行の過程が進行する。この少しずつの移行、それが成熟というものである。(p151〜152)

こうしたアルチュセールの考えの原点は、『人間の歴史的全体的構造こそが根本的だ』(p116)というヘーゲル(とマルクス)の思想にあると言えるだろう。
ここから汲み取るべき大事な政治的メッセージは、破壊や諦念ではなく、「成熟」と呼ばれる不屈でしたたかな情熱こそが「切断」を可能にするということ、また逆に、そのような情熱の持続によってもたらされるものだけを真の「成熟」と呼ぶべきなのだ、ということではないか。