『猿と女とサイボーグ』・その2

 

猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―新装版
 

 

 

『猿と女とサイボーグ』について、前回の記事では、所収の文章の中で最も有名な「サイボーグ宣言」について、少しだけ書いたのだが、あらためて全編を簡単に紹介しておこう。

まず、前半の幾つかの章では、ハラウェイの専門的な研究分野の一つである、霊長類学研究(特に米国の)の歴史が概観され、検討されている。

「猿」の研究は、人間の研究にとって不可欠である、みたいなことを言ったのは、エンゲルスだったかカフカだったか。ともかく、ハラウェイは、霊長類の研究が、生物・動物の中でも、人間社会の管理や支配のための材料としての性格を特に強く持つものである点(したがって、動物自身はどこか置き去りにされている)を強調する。たとえば、戦前の霊長類研究の権威とされた学者は、工場のテイラー・システム導入や徴兵の為の知能検査についても指導的な役割を果たしていたらしいのだが、それはある時代に限ったことではなく、ずっと続いているものなのだ、というのが大事なところである(霊長類研究者が組織のボスになった場合は、特に注意した方がいいかも知れないね)。

霊長類研究の歴史に関しては、「男性=狩猟者の娘たち」と題された章が、特に印象深く、ハラウェイのフェミニストとしての視点も、明確に示されているものだと思う。そこでは、第二次大戦後に次第に増えてきた有力な女性研究者たちが、霊長類の観察や、そこから推論される人間への進化の過程の理論に関して、世代を追って徐々に自由で独自な思考と言説を展開するようになった歴史が語られるのだが、ハラウェイは、そうした学問上の変化は、社会全体のフェミニズム運動の展開と不可分であり、また強い相互性を有していることを強調する。

こうした「政治」と「科学」とのせめぎ合い、つながりは、決して欠かすことはできない。なぜなら、科学、なかでもとりわけ生物学は、政治から独立して存在したり発展したことなど、そもそも一度もないものだからである。

 

 

『我々が、以下で概観しておこうとしている、社会生物学の立場にたったフェミニズムの論理は、西欧の政治民主主義という尽きせぬ理論の泉に端を発するものである。(中略)繁殖をめぐる競争という生物学の論理は、我々が継承している資本主義の政治経済や政治理論での、ごくありふれた初期的形態の議論の一つにすぎない。生物学は、本質的に、政治言説の支流でありつづけてきたのであり、客観的真理の概説ではなかった。(p189)』

 

 

科学や科学者に限らず、政治とは無縁に生きている人間など、この世に存在するだろうか?

それはともかく、同時に(逆に)、政治や政治運動には、科学との強い関係性もまた不可欠であると考えるところに、ハラウェイの特異さがあるとも言えよう。

だが、その「科学主義」は、あくまで、科学が常に「政治」(支配の意志)を帯びていることへの批判をはらんだものなのである。

上の引用文中に「社会生物学」(ドーキンスなど)という語が出てくるが、これもまた、科学(生物学)が示す政治への従属の形態の一つと考えることができる。

ハラウェイがこれらの論文で言っていることを概括すると、時代を追って、a「優生学、優位性」、b「人間工学、リベラルイデオロギー」、c「社会生物学、市場の論理」といったセットで生物学の言説が進んできたことが分かるのだが、これらはいずれも資本主義と政治支配のツールであったことが、本書では詳しく述べられているとはいえ、なかでも、これらの文章が書かれた当時の時代状況(もちろん新自由主義の台頭期でもある)を反映して、社会生物学に対するハラウェイの批判は辛辣である。下の文章では、aとの比較を含めて次のように述べられている。

 

 

社会生物学におけるエンジニアリングによる再設計の限界は、価値の私的領有や、それに必然的に付随する、まさに目的論としての支配の必要性といった資本主義の原動力によって設定される。性役割を遺伝的素因によって合理化する方が、「人間」が「自然」を支配するという社会生物学に基本的なエンジニアリングの論理に比べれば、根源的性差別主義の度合いはまだしも低い。(p130)』

 

 

さて、本書の中頃には、フェミニズムの歴史と論争に関する文章が収められているが、そこで目を引くのは、米国の白人中産階級出身、そして高学歴の女性研究者としてのハラウェイの、「他者」である女性たちの眼差しと言葉に対する感受性だ。

 

 

『その一方で、具体的には、黒人女性―そして一般的には、新世界による征服に遭遇した女性たち―は、もっと広い社会領域を構成するような生殖上の自由なき状態(リプロダクティブ・アンフリーダム)と直面してきた。すなわち、有色の女性たちが直面してきたのは、米国社会の基礎をなすような覇権的言説の数々において、彼女たちの子どもたちが、人間という地位を継承することがない、という状態だったのである。(p278)』

 

 

『屹立する矛盾同士の緊張状態を保ったままアカウンタビリティを創出するというのが、帝国主義、人種主義、男性至上主義のホロコーストを横断する女性たちのあるべき団結についての私のイメージである。(p233)』

 

 

フェミニズムの歴史と、当時の論争の状況についての、ハラウェイの詳細で難解な分析と主張を、ここで要約・紹介することはとても出来ない。

ただ、前回の記事でも紹介した「サイボーグ宣言」は、レーガン政権下(80年代中頃)の政治・社会の状況への鋭いカウンターであると共に、こうした「他者」との連帯を模索する、ハラウェイのフェミニストとしての実践の一つの里程として捉えるべきものだと思う。

 

 

『サイボーグは、断固として、部分性、アイロニー、緊密さ、邪悪さに関与する。サイボーグは抵抗的で、ユートピア指向で、無垢さなどまったく持ちあわせていない。(p290)』

 

 

『サイボーグたるフェミニストたちは、「我々」が一体性に関してこれ以上自然な根拠など欲していないし、どの構築物も全体などではない点について論じてゆく必要がある。(p303)』

 

 

「自然」概念に対する批判というのは、本書を通底するハラウェイの重要なテーマであり、「サイボーグ」というイメージ・発想も、当然、その文脈で読まれるべきものではあるだろう。

だが、「サイボーグ宣言」をいま読んで、何より驚かされるのは、経済のグローバル化新自由主義の拡大、そしてIT技術の急速な発展とその軍事との結びつき(また、やがては生命科学との合流)という、当時の社会の状況に対する分析が、現在にもほぼ当てはまっているようにも思えることだ。

ここでは、レーガン政権下で急速に発展しつつあった政治(統治)の手法について、ハラウェイは、「支配の情報工学」という言葉を使っている。

 

 

『女性たちが直面している状況とは、私が支配の情報工学と称する生産/再生産とコミュニケーションの世界システムへの女性の統合/搾取である。家庭、仕事場、市場、公的舞台、身体自体といったものは、いずれも、ほぼ無限かつポリモルフなやり方で、分散させ、連動させることが可能であり、その結果、女性をはじめとするさまざまな人々に重大な帰結がもたらされる。しかし、もたらされた帰結の内容自体が、その結果の及ぶ人々によって甚だしく異なるため、国境を越えた強力な抵抗運動が不可欠であるのに、そうした運動を想像することさえ困難となってしまう。(p314)』

 

 

具体的な状況の分析を、引用が多くなるが、さらに引いておこう。

 

 

『労働は、それを行うのが男性であると女性であるとにかかわらず、文字どおり、女性的、あるいは女性化されたものとして再定義されつつある。女性化されることが意味するのは、極端に弱い立場に追いこまれ、予備労働力として分解・再組み立てされたり搾取されたりする対象となり、労働者としてよりは奉仕者であるとみなされるようになり、賃労働に時間契約で就いた結果、就労時間制限すら用をなさなくなり、猥褻かつ場違いで、セックスに還元可能な状態と常にスレスレの存在となることである。(p319)』

 

 

『こうした経済、技術の新たな編成は、福祉国家が崩壊し、その結果、女性に対して、自らのみならず、男性、子ども、老人の日常生活をも維持せよとの要求の強まったこととも関連している。貧困の女性化―福祉国家の解体によって、そして安定した職業そのものが例外と化したようなホームワーク経済によって生起し、子どもを養っていくという意味で、女性の賃金が男性の収入に匹敵するレベルに達することはないだろうという予測のもとに維持されているような動向―が、焦眉の課題となっている。(p320)』

 

 

『新技術から派生した世界規模の構造的失業状態についての見通しが、ホームワーク経済という情勢の一部をなしているのは、こうした文脈においてである。(p321)』

 

 

『新技術の社会関係に必然的に伴う今一つの側面は、労働力として科学やテクノロジーに携わる多くの人々にとって、期待、文化、労働、生殖/再生産が再編されることである。社会的、政治的に見た危険としては、極めて二重性の強い社会構造が形成されることが重要だろうし、その過程では、ホームワーク経済の恒常的な人員余剰状態から抜け出せず、いろいろな意味で無能力、無気力状態に追いこまれ、エンタテインメントから監視、痕跡抹消にいたるハイテク抑圧装置によって管理された女性や男性の大衆が生み出される。こうした大衆にはすべての民族(エスニック)グループが含まれるものの、中心をなすのは有色の人々である。(p324)』

 

 

『支配の情報工学は、不安がいちじるしく増幅され、文化が疲弊し、最も傷つきやすい者が生存するためのネットワークが常に欠落しているような状態としてしか描写のしようもない。(p329)』

 

 

「サイボーグ宣言」とは、こうした情勢認識をもとに、それを乗り越えるために提起された、連帯とサバイバルの処方なのだということは、何度でも強調されるべきだろう(その一端については、前回の記事を参照されたい。)。

 

 

『サイボーグのジェンダーは、グローバルに復讐するローカルな可能性である。人種、ジェンダー、資本は、さまざまな全体やさまざまな部分についてのサイボーグ理論を必要としている。サイボーグには、全体に関わる理論を作ろうという衝動はないものの、境界に関わる―境界を構築し、脱構築してきた―親密な経験がある。サイボーグには、いずれは政治の言葉となって、科学やテクノロジーを考え、支配の情報工学に挑戦して、強力な活動を行ううえでの一つの方策を基礎づけることになるであろう神話の体系が存在する。(p346)』

 

 

さて、本書の最後から二番目に収録された「状況に置かれた知」という文章は、かなり理論色の強いものだが、フェミニズムの立場から、科学的認識、のみならず「客観性」という言葉のあり方を定義し直そうという、非常にラディカルな内容のものだ。

フェミニズムの立場からというのは、つまり、超越的な視点や位置に立たず、自己にとって「対象」とされるような相手との相互性、いわば対等性を受け入れる、という意味だ。

ここも引用が続いてしまうのだが、ハラウェイの言葉を読んでいただこう。

 

 

フェミニズムの立場にたつ者は、超越性―誰かが何かについて責任を有さざるをえなくなったまさにその地点で、自らの媒介行為の轍を消してしまうような物語り―や、無限の機器的権力を約束するような客観性という教義を必要としてはいない。我々は、ことばと身体の双方が有機的共生の至福へと転落していくような世界を表象するための無垢なる力をめぐっての理論を欲しているわけでもない。我々は、大文字のグローバルシステムとしての世界を理論化したいわけではないし、ましてや、そうした世界で行動したいわけでもないものの、地球規模の連携のネットワーク(中略)は必要としている。(p358~359)』

 

 

『というわけで、さほど予想外というわけではないけれども、客観性とは、特定の具体的な具現化の過程に関わるものであって、決して、あらゆる限界や責任を超越することを約束するような偽りの視覚(ヴィジョン)に関わるものではないということになる。教訓は、単純であるが、以下の通りである―部分的な視角(パースペクティブ)のみが、客観的な見方(ヴィジョン)を保証する。客観的な見方とは、視覚(ヴィジョン)にかかわるあらゆる実践の生成能力に関わる責任という問題を隠蔽するのではなく、創出していくような見方である。(p363~364)』

 

 

アイデンティティにしても、自己アイデンティティにしても、科学を生成することはない―科学を生成するのは、ぎりぎりのところで位置を選びとる過程、すなわち客観性である。支配者としての各種の位置を占めている者たちのみが、自己同一的で刻印されておらず、具現化されておらず、媒介されておらず、超越的で、生まれかわる。残念ながら、被隷属の位置にある者が、そうした主体の位置を熱望したり、場合によってはそうした主体の位置にスクランブルをかけたりする―そして、その後、視界から消えてしまう―ことも可能である。

刻印されざる者の目の位置からみた知は、心底、幻想的で、歪んでいて、そしてなんとも不合理である。客観性を到底実践できず、客観性に栄誉を与えることもできない唯一の位置が、マスター、大文字の男性/人間、唯一無二の神という位置であり、彼らの「目」があらゆる差異を生成し、領有し、指令する。(p370~371)』

 

 

ここで、「刻印されざる者」という語に、代表例として、政権の指導者(辞めかけだが)のイメージを当てることは、あまりにも容易(超越的?)であるものの、そう間違ってもいまい。要は、男性主義的な世界観(像)ということである。

それに抗して、ハラウェイが主張するのは次のようなことである。

 

 

『状況に置かれた知においては、知の対象が、行為主体であり、なおかつ媒介行為主体として図像化されることが必要である。(中略)かくして、「リアルな」世界をめぐっての記述内容は、「発見」の持つ論理にではなく、「対話」の持つ、充電され、権力を帯びた社会関係に依拠していることとなる。(p381)』

 

 

『客観性とは、非-相互関与状態に関わるものではなく、世界という場―すなわち、「我々」が、恒久的に、死にゆくような存在でありつづけ、すなわち、「最終的」管理のもとに置かれた存在などではないような場―において、「我々」が、相互に、そして大抵は、相等しからざるかたちで、何を形づくっていくのか、そして、その過程でいかにリスクを負ってゆくのか、といったことがらに関わるものである。(p386)』

 

 

ところで、「訳者あとがき」によると、ハラウェイは、80年代後半からのエイズの流行のなかで、元夫であった人の同性愛のパートナーの男性と、元夫とを相次いで失っている(この二人は、ハラウェイとそのパートナーと共に、四人で共同生活をしていたとのこと)。

その深い喪失の痛みのさなかで書かれたのが、最後に収められた免疫学の言説の社会における役割についての分析、「ポスト近代の身体/生体のバイオポリティクス」である。

そのなかでハラウェイは言う。

 

 

『いったいいつになったら、自己が自己に飽きて、医学や戦争やビジネスにおける制度化された言説の全体にとって、自己の有する境界が最重要事項となるような状況をもてあますようになるのだろう。免疫と傷つきにくさというのは、互いに交錯する概念であり、こうしたことは、集団としての個や個人としての個についての手近なリベラルな言説が、死や有限性をめぐる体験を収容しえない核文化では、当然の帰結である。生き物は、傷つきやすさの窓のような存在である。その窓を閉ざしてしまうのは誤りではなかろうか。(p438)』

 

 

ハラウェイが批判しているのは、死や有限性という外部を認めない、不死(超越)のイデオロギーのようなものだろう。

だがそれは、資本主義の想念であると同時に、彼女が言うように「核文化」の本質でもある(これは、80年代の運動が切り拓いた重要な観点だと思う)。つまりそれは、実際には、生を否認する、死のイデオロギーなのだ。

この資本主義に覆われた社会においては、(自他の)死への希求は、われわれみんなの内部に深く埋め込まれていることを自覚するべきだろう。とりわけ、「心底、幻想的で、歪んでいて、そしてなんとも不合理」な内面に閉ざされた、われわれ男性の内部には。