『階級意識とは何か』

階級意識とは何か (三一新書 828)

階級意識とは何か (三一新書 828)


前回紹介した『コーラ』の広坂さんの論考にも登場したが、哲学者の久野収は、日本が軍国主義ファシズムの波に完全に呑み込まれていった1930年代に抵抗と挫折の経験をした人である。
その久野が戦前から注目したヴィルヘルム・ライヒが、E・パウルの変名で1934年に世に出したのが、この『階級意識とは何か』という小さなパンフレット的な本である。
久野は戦後、1970年代になって、この訳書を三一書房から出した。
その「解題」に、ナチズムに対するドイツの労働運動の敗北を最も深刻に受け止めて書かれた、最良の実践的書物だろうと書いてあるのは、そうだろうと思う。
今日の視点で見ても、非常に刺激的な内容の本なので、少し紹介しておきたい(もっと早く紹介したかったが出来なかった)。




ドイツの左翼運動は(それは日本の運動にも当てはまると、久野は考えたはずだ)、なぜ大衆の心をつかむことが出来ず、ナチスに敗北したか。ライヒの問いは、この一点をめぐっている。
その言葉を、いくつか引く。

なかば非政治的に、なかばイデオロギー的に抑圧された広汎な大衆の語るコトバで、われわれは語っていないからこそ、大衆は最終的に反動の勝利に手を貸したのだ・・・(p20)

革命が展開されるのは、ただ今日の生活の諸矛盾だけからであり、末日の対立に関する論議やだれもやりとげられないデモやストライキへの呼びかけからではない。またナチ党員を犯罪者、かつサディスト呼ばわりをすることからではなく、彼らの主観的諸努力と問題解決への彼らの無能力との対立からである。
 われわれは、われわれの見解が百パーセント正しいと証明したり、正しくないと否認したり、百パーセント実行可能だと証明したり、実行不可能だと否定したりする仕事に大きな重心をかけるべきではない。
 正しさは、実践の中で証明されなければならない。われわれが最大の重心をかけなければならないのは、現実に何が起っているか、広汎な社会諸層が何に関心をもっているか、反動派の諸矛盾はどこにあるかを注視する仕事である。理論は行動のはじめに、できあがって、そこにあるはずがない。理論は、ただただ行動する過程の中で発展させられ、間違いからきよめられるのである。(p67〜68)

もしわれわれが、労働者から最後の一滴までをしぼりとる、この法律(引用者注:新労働者法)の全体的残忍さをただみつめて立ちすくむだけで、われわれが、イデオロギー的に誘導された労働者とは別の目で見ているし、別の感じ方をしているのだということを忘れてしまえば、われわれが労働者に語りかける場合、われわれはただ、われわれの考え方や矛盾を表現しているだけで、彼ら労働者の考え方や矛盾を表現しているのではなくなるだろう。われわれの労働組合工作も、労働者がイデオロギー的にどこで見通しをさえぎられているかを注意深く考え、知的につきとめながら、イデオロギー的工作を先行させなければならない。(p70)

それゆえ、労働者は、身のまわりに起っていることを正しく感じとっているかもしれないが、彼は、指導部がないと思い、やむなく自分の胸中に、つぎのような希望をふくらませなければならない。ヒトラーもまんざら悪意ではなく、やはり≪労働者のためにも≫何かをしてくれるだろうという希望である。(p71)

党は、このような主張を聞くことを好まず、ファシズムの中に、その反動的機能を見るだけで、その大衆的基礎にふくまれる革命的エネルギーを見ようとせず、そういう片よりによって、ファシズムとの闘いに敗北したのであった。(p120)

政治からの逸脱だ、反革命だとレッテル貼りされた運動の方が、かえって革命の現実的宣伝であった。この運動が生み出したのは、非政治的大衆の政治への関心であり、そして最後にものをいうのは、この関心なのである。(p154)


ここまでで、ライヒの言わんとしていることは、大体理解されると思うが、その手法をもう少し具体的に見てみよう。
たとえばライヒは、当時のドイツの男性労働者たちの心理を分析して、

階級国家が男性にあたえる性的所有権、妻と子供の力ずくでの支配は、家族のすべてのメンバーにおける階級意識の発展をさまたげるもっとも重い障害に属する。(p75)


と書いているのだが、そういうものを克服(啓蒙)するべき対象として捉えるのではなく、それが「イデオロギー的に誘導された労働者」のありのままの精神構造であることを認めて、そこに働きかける有効な政治宣伝の方法を考えようとするのである。

これは、倫理問題ではなく、政治問題であり、政治問題、それも、革命的政治宣伝の問題――これまでのように政治の裏部屋に押しこめるのではなく――としてしかあつかいようがない。男性における私生活のもっとも重大で、政治的にもっとも有力な領域が、たぶん、ここに存在している。(p75)


そこからライヒは、男性労働者たちが、革命の成功によって自分たちのブルジョア的な「小資産」を奪われるのではないかという不安を抱いていることへの理解の必要性を説き、左翼側はそうした家父長的な発想を倫理的に批判(啓蒙)するよりも、まずそのような不安は持つ必要がないということを宣伝することに力を注ぐべきだ、と結論付けるのである。




このような認識に立ったライヒの主張する方策が、ドイツの左翼によって採用されることはなかった。
ただ、思うのは、こうした方策が採用されていたとしても、左翼が(いや、左翼でなくてもいいのだが)ナチスの支配を阻止することが出来たかどうかは、疑わしいということだ。
その理由の一つは、彼の語る対抗策は、ナチズム(ファシズム)そのものと酷似(接近)してしまう可能性があると思えるからである。特に、宣伝によって宣伝に対抗するということであり、それでは(特に政権を握られた後では)物理的にも限界があるであろう。
ライヒの言っていることは、ナチスの拡張に対する対抗策というよりも、運動に対する、また運動に携わる個々の人間に対する内在的な批判として読むべきものであると思う。その「根本」に立たなければ、ナチスへの対抗ということは不可能ではないだろうか。
上に紹介したようなライヒの言葉は、普通考えられるように左翼のドグマ的な態度を方法論的に非難したところに意義があるのではなく、それが組織や個人の内部に権威的な性格を生み出していることを、鋭く衝いた点が重要であると思えるのだ。
ライヒの左翼・労働運動に対する批判の核は、啓蒙しようとする(権威主義)のでなく、他者(大衆)に謙虚に耳を傾けよ、ということである。

拙劣きわまるパンフレット(その他の扇動ビラ)は、むしろない方がましである。大衆に失望や幻滅をあたえる行動は、どんな場合もさけなければならない。成否を決定するのは、善意の意志ではない。かえって、大衆への影響効果の大小、深浅である。(大衆自身の決意と対照せよ)。大衆からの信頼が、大衆へのすべての実験的影響に先だたなければならない。たとえば、自分たちが何かを知っていないんだということを認めなければならない。(p167)

事実に即した批判の促進と批判のための批判の冷酷なまでの排除。他人の立場をいつもまず理解しよう。(p171)

思考の中で、自分の立場をかえてみるやり方を学ばなければならない。この態度は、信念をぐらぐらさせる態度とは区別される。組織への釘づけや伝統的見方への呪縛が、生きた現実への直視の妨害となる場合、この釘づけと呪縛にコントロールをくわえる態度である。(革命的組織とこの組織での意識的連帯とは、個人の革命的活動の基礎である。この組織がそれ以上になって、故郷や家庭の無意識的代喚物になってしまう場合、現実への眼力はくもらされてしまう)。(p173)


フロイト派の学者として性を重視したライヒの関心は、政治組織ばかりでなく、家族や性的関係における抑圧構造の解体に、真の解放の鍵を見出そうとするものだったようだ。
この本からは、その詳しい点までは分からないのだが、彼のそうした発想は、特に亡命して移り住んだアメリカにおいて、戦後の若者たちの運動に少なからぬ影響を及ぼしたのではないかと思われる。
性や個人的な関係の次元から抑圧や権威主義を除き去ることに、ファシズムへの抵抗の基礎を見出そうとしたライヒの態度は、われわれにも重要な示唆を与えてくれるだろう。
今回読み直して、特に印象深かったのは、次のような一節だった。

青年世代は、すでにいまから、一つ一つの領域で、自分の生活をととのえはじめなければならない。(中略)こうして彼らは、実践を通じて、革命政治が何であり、革命的必然性とは何であるかを認識するであろう。資本主義の味方をする政府筋が、たとえば、避妊手段の獲得とか、住居問題における相互扶助の組織とか、その他、その他に妨害をくわえるとき、まず脅迫し、つぎに逮捕し、最後に長期投獄をくわえるとき、そのときにのみ、彼らは、自分たちがどこで、どのように抑圧されているかを心底から感知するであろう。そのとき、彼らは、空っぽの空間の中ではなく、外からもちこまれた呼びかけからではなく、資本主義の中での生活の頑固な現実との衝突の中で、どう闘うかを学ぶであろう。
 チェコの青年徒歩旅行グループは、一九三一年、彼らの性生活をテントで送っていた仲間が警官によって逮捕されたとき、このようにして闘うことを学んだ。彼らは、彼らの権利のために、にぎりこぶしでもって、街頭で権力と闘ったのであった。(p160〜161)