『国家神道』

国家神道 (岩波新書)

国家神道 (岩波新書)

国家神道」まで

戦前の日本を支配した国家神道について論じた有名な本だが、初めの方はその前史、古代から江戸時代までの神道と神社の歴史が書かれていて、この部分もすこぶる面白い。


特に、「学派神道」と呼ばれる、神道の教義上のセクトの争いが、時の国家権力や他宗教をも巻き込んだ全国的な権力闘争だったということが分かると、日本人がやることは今も昔もそう変わらないと思う半面、どこかワクワクしてくるものがある。
たとえば、伊勢神宮には古くから内宮と外宮の神職たちの間に争いがあり、双方の争闘は全国各地で繰り広げられた。本地垂迹を否定して、神道を主体的なイデオロギーとして初めて体系化し、『神皇正統記』などのいわゆる神国思想に深い影響を与えた伊勢神道は、外宮神職団によって作り上げられたものだそうだ。
また、京都の吉田神社を拠点とする吉田神道は、近世日本最強の学派神道であり、時々の権力者と結びついて、約三百年にわたって神道界を牛耳った。室町時代には、伊勢神宮を京都に遷宮することを目論み、あと一歩というところまで行ったようだ。幕末・維新の動乱期にも、吉田神道の暗躍はあった。
こうした教義の異なる諸勢力の争いは、民衆とは隔絶した権力ドラマだったわけだが、人々の生活に密着したものとしての神社信仰は、他宗教との習合ということに大きな特徴を持っていた。原始宗教の色合いを強く残した民族宗教である神道は、独自の体系性が希薄であるがゆえに、外来のさまざまな宗教の教義と習合することで、多様な信仰のあり方を生み出してきたことにこそ、生きた伝統と特徴があったと言えるのである。
そうした「習合」という神社信仰の伝統を破壊したものこそ、神道の強引で欺瞞的な純粋化としての国家神道であった。

神道は、これらの他宗教との習合によって、自己形成をなしとげた宗教であったから、国家神道が目ざしたような、神仏分離による神道からの習合的要素の完全な排除は、実現不可能であったのみでなく、歴史的に形成された神道そのものの自己否定にほかならなかった。(p38)


神道の教義の歴史は、江戸後期、幕末に近い頃になると大きな変化を経験する。内外の情勢の不安定化のなかで、国学の影響を受けた、いわゆる復古神道が台頭するのである。それは、明治維新という政治の激動の指導的イデオロギーとなった。

復古神道は、仏教、儒教陰陽道等の発達した外来の宗教と習合することで自己展開をとげてきた神道の歴史のうえでは、特異な学派神道であった。そのファナティックな復古の絶対化と排他性は、あきらかに神道の伝統とは異質であった。このような、いわば神道の異端派の思想が、倒幕の政争の過程で、政治上の指導的イデオロギーとなりえたのは、その宗教上の復古主義尊王主義が、天皇の古代的宗教的権威の復活による日本の中央集権的再統一という王政復古の政治目的を、イデオロギー的に基礎づける政治的有効性をそなえていたからである。(p67)

その一方で、「教派神道」と呼ばれることになる、天理教金光教などの民間宗教も次々に勃興し、日本の宗教事情は、民衆性という意味では新しい時代に入ったと、著者は見ている。
本書では、そうした民衆的・自生的な宗教の動きが、近代天皇制国家により「国家神道」という装置によって抑圧され回収されていく過程として、明治以後の日本宗教史が語られていくのである。

復古神道から国家神道

以下、明治、大正、昭和と順を追ってその経緯が実証的に述べられて、たいへん分かりやすいのだが、侵略戦争遂行の思想上の最重要手段となっていく昭和期のことは比較的知られていると思うが、僕が興味深く読んだのは、明治から大正にかけての歴史である。
上記の復古神道の影響下に、明治初頭には有名な排仏運動が各地で荒れ狂うが、明治政府は国策上の配慮から、それを抑制するようなポーズだけはとったが、実際にはほとんど暴挙を黙認した。それは、こうした運動が幕藩体制下で大きな役割を果たしていた仏教の力を弱め、明治政府による宗教支配を容易にするだろうという目算からのことである。
復古神道のファナティックな気分が支配するなかで、政府は当初、神道の国教化を図るなどしたが、その排他性・排外性が、条約改正から資本主義化を進めようとする国策と折り合わないことと、幕藩体制下では政治的な役割を果たす経験を持たなかった神道自体の力不足もあって、この方向はとん挫する。
明治政府は方向を大きく転換し、帝国憲法によって、神道以外の各宗教に、天皇制の支配論理の枠内での「信教ノ自由」を認めるという道をとることになる。そのための方策として案出されたのが、祭祀と宗教との分離という論理であり、これが「国家神道」という仕組みにつながっていく。

祭祀と宗教との分離によって、宗教ではないというたてまえの国家神道が、教派神道、仏教、キリスト教のいわゆる神仏基三教のうえに君臨する国家神道体制への道が開かれ、世界の資本主義国では類例のない、特異な国家宗教が誕生した。この国教は、いわば宗教としての中身を欠いた、形式的な国家宗教であり、国民は、国家によってこの国教を新たにあたえられ、その信仰を強制されることになった。(p118〜119)

国家神道は、専ら祭祀だけを行なう「宗教ならざるもの」として、国民と諸宗教の上に君臨し、この事実上の(内容なき)国教の支配を受け入れて天皇制国家に従属するという条件のもとでのみ、諸宗教は「信教ノ自由」なるものを与えられる。
これが、「国家神道」という宗教的支配の仕組みだ。
神道は国民教化の手段として、学校で徹底的に教え込まれる一方、神道以外の宗教教育は厳しく禁止されるという時期が長く続いた。国家と結びついた神道イデオロギーの特権性が、国民である以上は疑問を持ちえないような絶対的なものとしてすり込まれる一方で、「宗教」一般は、どこか非公的な、それどころか非国民的でさえありうるような、胡散臭いものへと貶められることになる。
天皇制への無意識の信仰・訓育と表裏をなした、宗教一般への蔑視という、戦後の日本社会につながる根深い傾向の源を、ここに見ることが出来ると思う。

一般に、発達した資本主義国では、政教分離は、国家権力の世俗性を確立する過程にほかならないが、近代天皇制のもとでは、この括弧つきの政教分離は、国家権力の宗教性を補完する役割をはたした。(p132)

教育勅語民法の制定

国家神道を国民に浸透させていくための教典となったのが、有名な教育勅語であった。
帝国憲法教育勅語が発布された明治二十年代には、自由民権運動の高まりと条約改正を目指す政府の欧化政策とに対する保守派・国粋派の反動が強烈となり、政教分離論者で欧化の代表と目された文相森有礼伊勢神宮関係者に暗殺されるという事件も起こった。
一方、神社の宗教性をめぐって神道界には論争があったが、大勢は(民衆的・独立的な)宗教性を自ら捨て去り、政府の方針に従う形で(教化のための)教義と制度の完成を目指すという方向に固まった。
国粋主義の高まりを背景に、政府は、明治の初めごろに試みた国民教化運動を、学校教育の場で再現することを目論んで、教育勅語を公布。
その特徴は、儒教的な「孝」の精神を、そのまま天皇を中心とする家族国家観に拡大して結びつけたもので、それは「天皇の赤子」という語によく示されている。

国民にとってのすべてが、天皇への滅私奉公に収斂されるという点で、教育勅語イデオロギーは、たぐいまれな強烈な宗教教義であった。(p138)

この教育勅語と一体をなして、家族道徳による天皇イデオロギー(国体思想)の定着を確実にしたのは、民法制定だった。
今日まで影響の続く明治民法は、当初一部公布された時には、ヨーロッパにならった近代法的な性格を備えていたのだが、日清戦争を背景に、保守派・国粋派が「民法出でて忠孝滅ぶ」のスローガンのもと、大々的な反対運動を展開し、ついに家父長制的家族制度と天皇制を結びつけた民法の制定を勝ち取ってしまう。
このへんは、まったく最近の自民党保守系運動のやっていることを見ているようだ。
西洋化や民主化に対する保守派・国粋派からの強烈な揺り戻しが、資本主義化・強国化を目指す政治家や官僚の意図と、あるところで融合し、反動的な制度が形成されていく。こうした力学のようなものは、維新以後の日本では一貫している。治安維持法普通選挙実現の交換条件のように制定されたものだし、靖国など国家神道を復活させようとする反動勢力の動きは、戦後もやむことはなかった。

神話と建国

(前略)国家神道は、特定の神を立て、それらの神々への信仰を説く、まぎれもない宗教であった。国家神道は、発展した形態の民族宗教であり、体系的な宗教イデオロギーをそなえていた。この国家神道教義は、国体の教義、すなわち大日本帝国が掲げる国体観念であった。(p140〜141)

国家神道以前の伝統的な神道のあり方は、(一部の教義的なものを除けば)体系性が希薄であることに特徴があったと先に書いたが、国家神道は、それとはまるで違っていた。むしろ、そうした体系性・ドグマ性のなさや、そこから来る他宗教、他文化との習合的な性格を否認し、打ち消そうとするかのように、それは(近代化のための)強引な体系性を目指すのだ。
この意味で、自らは(神道は宗教ではないと)否定していたが、戦前の日本は、紛れもない宗教国家だったのである。
そして、この「国体の教義」の根拠とされたのが、記紀古事記日本書紀)の政治神話であった。国家権力は、記紀神話を正統神話と位置付けて学校教育で教え込んでいく。

一般に近代国家においては、神話は宗教ないし文化遺産の領域の問題であり、直接の政治的機能を担うことはまれである。しかし国家神道体制下の日本では、神話がそのまま国家権力のイデオロギー的基礎であり、政府は正統神話を確立することによって、天皇の名による政治支配を正当化した。大日本帝国では、神話はまさしく政治の次元で生きており、それゆえに政府は、神話を、国民に教え込み、ひたすら信じさせる必要があったのである。(p143)

習合的な生活世界の記憶を抹消し、帝国主義国家の強引な国民形成を推し進める為に召喚される、古代の侵略的な「建国」の神話。
宮中儀礼や祭祀を通した記紀の時代の神話的記憶との同一化は、この国家体制のイデオロギーが効力を持つための必須事項だった。

国家神道の祭祀は、こういう(古代農耕社会の)民族宗教儀礼の機能を、近代社会において再現したものであった。その目的は、(中略)この儀礼に、全国民を強制的に参加させることによって、国体の教義にもとづく共同体的な結合と統一を確保することにあった。(p146)

国家神道は、新たに組み立てた国体の教義を、神代に淵源する惟神の道と強弁することによってしか、国民に強制する根拠をもちえない宗教であり、復古主義こそが国家神道の本質であった。(p159)

さらに日露戦争によって、国民と神社との精神的結びつきが強化され、国家神道を制度化し定着させる政府の方針は着々と実行されていく。
記紀神話の内容にも暗示されているように、侵略戦争国家神道の結びつきは本質的なもので、著者は、太平洋戦争敗戦に到る天皇ファシズムの時代を、『国家神道の侵略的教義が、その真価を余すところなく発揮した時期』(p196)と見ている。
またこの頃、内務省の命令による強引な神社の統廃合や画一化も行われ、習俗と結びついた伝統的な神社文化の政府による破壊に対する批判は、柳田国男らの日本民俗学提唱の大きな動機ともなったという。
僕らがよく知っていて、それが神社の昔ながらの姿だと思っている、鳥居があったり、鎮守の森があったり、拝殿や社務所や手を洗う所があったりということも、この時に内務省の法令で細かく決められたものだそうだ。それ以前には、それらは「どこにでもある、自然な光景」ではなかったのだ。

宗教の分断統治

明治末年には、日本の主要な宗教勢力は、ほぼ国家神道体制の枠内に掌握される。
大正期は、いわば政府による宗教の分断統治の時代である。それは、「宗教ならざるもの」としての神道を管轄する内務省神道以外の公認宗教を監督・指導することになった文部省、そして非公認の諸宗教を弾圧する役目の警察(内務省)という、統治側の三分割に対応していた。
このうち、教育行政のみならず国民教化をも主要業務とすることになった文部省は、国家神道の支配という大枠を受け入れることを条件に公認され(明治憲法下の)「信教ノ自由」を保障された諸宗教を、国民教化に協力させるよう監督・指導するという役割を負ったのである。
カトリックを含めた大半の宗教団体は、この欺瞞的な「自由」を易々と享受したという。

国家神道体制は、原理的に信教の自由と相いれない宗教の統制支配の体制でありながら、公認宗教の教職者、信者のほとんどは、帝国憲法による「信教ノ自由」を実感し、その存在を信じて疑わなかった。(p172)

あくまで天皇制による国家の支配という大枠の中での、限定的な自由を、本当の市民的な自由と考える錯覚から抜け出せないままに、日本の宗教はその独立性を喪失して戦争協力に向かっていった。


これ以後は、戦争に向かう昭和の国家神道の歴史、その「最終段階」(一応の、だが)の物語である。 侵略戦争への全面的協力から、靖国神社をはじめ国家神道体制の復活を目論む反動的な動きの連続であった戦後の歴史まで、この部分を知ることこそが大事なのかも知れないが、ここでは触れない。
ただ、読んでいて、ひとつ意外だったのは、有名な神社の中で、明治以後に国策によって創建された神社の多いことだ。
明治神宮はもちろんだが、神武天皇を祀った橿原神宮や、桓武天皇平安神宮後鳥羽天皇他の水無瀬神宮、また明治の前半に多く作られた南朝系の神社、たとえば楠正成を祀った湊川神社後醍醐天皇吉野神宮、それに徳川(東照宮)の位置づけを相対的に低める意図もあって作られたという、豊国神社や建勲神社(信長)など。
そして、なんといっても靖国神社
僕らが知っている神社の姿は、その多くが明治以後の天皇制国家の制度やイデオロギー(侵略主義など)と重なっていて、そうではない姿を想像することは今では難しいのだと、あらためて思った。