{本]『神皇正統記』

神皇正統記 (岩波文庫)

神皇正統記 (岩波文庫)

神皇正統記』は、何度も内容の一部を書き換えられたり、改竄・重修されてきたらしい。




岩波文庫版の校注を行った岩佐正の解説によると、興味深いことに、南北朝時代にこの本が世に出た当初、南朝方の人々ばかりではなく、この本のイデオロギーとは敵対するはずの北朝方に属する東国の武士たちの間でも、この書物は広く読み伝えられたのだという。そこで、迫害を恐れたのか、足利幕府の支配体制に適合するように、北朝方の読者たちによってその内容に「加筆削除変更」が繰り返し行われるということがあった。
これが、古い時代における「修正」である。
だが、最も重大で無残な修正が行われたのは、幕末から明治以後にかけてだったようだ。それは、この時代の国をあげてのパセティックな皇国思想の高揚と、またそれを動力として成立した天皇制国家の初期の確立過程において、歴史的なモデルとして最も重要な役割を果たしたのが、神代の時代の話ではなく、『神皇正統記』に描かれた「建武の中興」の物語に他ならなかったからであろう(とりわけ、楠正成への崇拝)。
特に明治に入ると、中等学校教科書としてこの書物が数多く出版されるなかで、『重修神皇正統記』という大規模な改竄を行ったものまで作成されるに至ったという。その内容は、例えば「純粋に日本的な記事を中心にするために」、中国やインドに関する記述を削除したり、また仏教や儒教に関する記述を削除するなど、大幅なものだった。
これらに関して、岩佐正はこう書いている。

この前後二度に亙る神皇正統記に対する改ざん・重修は親房の神皇正統記を幻想の神皇正統記とするものであり、それが個人の思い上がりの試みでなく、その背後にそうせざるを得なかった時勢の存在していたことを認めるとするも、どのみち神皇正統記としては最大の不幸であった。皇典とか神典とかの与えられた名のもとではなく、日本の古典として広く正しく静かに読まれるべきものと思う。(p288〜289)

その通りだろうが、それにしても、苛烈なイデオロギー闘争の書物というイメージがある『神皇正統記』が、その現実の闘争のただなかで、敵対する陣営の武士たちに広く読まれたということは、一見、奇異な感じがする。
たしかに、

世に南北朝の抗争とか対立とかいうけれども、詳細に観察すれば、吉野朝廷に対する足利氏を中心とする武士団の興起と幕府政治開設につらなる乱世と見る方が正しい。吉野朝廷と京都の皇室、吉野の公卿と京方の公卿とが正面切って闘争したのではない。時代の大きな転換のさ中に処して、双方ともに心ならずも時代の激流に流されたのである。南北朝合一後親房が特に高く評価されたのは、その生涯を貫く生活態度と神皇正統記をはじめその著書の徳の然らしめるところであろうが、その底流にこうした両朝の親近性のあったことは見逃しえない。(p277〜278)

と、岩佐も述べているように、天皇に代表される日本という枠組みへの帰属意識において、南北両朝の公卿や武士の間に元来共通したものがあったことは、押さえておかねばなるまい。
だがそのなかで、明治前後に言われたような「勝てば官軍」というような力の論理ばかりでなく、たとえ敵対する側が主張するものであっても、正義や正当さがどこにあるのかというテーマへの強い関心を、他ならぬ力の論理の体現者であるはずの武士たちが抱いていたらしいということに、私は心を惹かれるのだ。


実際、『神皇正統記』を読んでみて、何より心に残ったのは、現実の権力闘争の帰結に左右されない正義や倫理性への意志というものであり、おそらくそこから生じている他者に対する寛容の精神のようなものである。
一般に言われているように、これを可能にした重要な要素は朱子学の影響なのであろうが、それが江戸時代以後に見られるような秩序のための道徳とか、敵対者排斥のための論理としてではなく、力の論理の支配に対する抵抗の精神の拠りどころという性格を持っているところに、本作と作者北畠親房の偉大さを見る思いがするのである。
いや、そもそも朱子学のこのような受容の仕方に、戦乱の時勢に抗った親房の、反権力的寛容の精神を見るべきだろうか。
私は、実際に読むまで、この本には「三種の神器」に象徴された南朝方の皇統の正統性の頑強な主張だけがあるものと思っていたのだが、違っていた。
ここでは、神器、なかでも特に重要な役割を持つ鏡(神鏡)は、「正直」とか、「不正」がないことといった、内面的価値の証である。それは、皇統の歴史においては、親房の論じるところの正統性が保たれているということ、つまり南朝の正統性ということを確かに意味しているが、大事なことは、現実の時代の趨勢のなかで、この正統性の論理は、すでに敗者のそれになりつつあったということである。
だから『神皇正統記』の正統論は、対立する片方の側のイデオロギー的主張という以上に、勃興する武士階級が体現する力の論理へのアンチテーゼという性格を、色濃く持つことになる。

保元・平治より以来(このかた)、天下みだれて、武用さかりに王位かろくなりぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによることとぞ見えたる。(p141)

とりわけ、末尾に近い部分では、力に任せて権力の階段を上ることを競い合い、狭い国土の中で領地の奪い合いに血道をあげる武士たちの姿が、峻烈に批判されている。

中古までも人のさのみ豪強なるをばいましめられき。豪強になりぬればかならずを(お)ごる心有。(p181)

人の心のあしくなり行(ゆく)を末世とはいへるにや。(中略)大方を(お)のれ一身は恩にほこるとも、萬人のうらみをのこすべきことをばなどかかへりみざらん。(p182)

武士たちのこうした利己的な振る舞い、やがて「下剋上」と呼ばれるような乱世のアンモラルへと向かっていくあり様への批判は、たしかに一面では、天皇のもとでおのおのの「分をわきまえよ」というような身分制社会の道徳に他なるまい。
それこそ、現安倍政権が目論む、実際には「力の論理」の最悪の教化に他ならないところの「道徳教育」なるものの祖型がここにあると言っても、決して言い過ぎたことにはならないのである。
だが、実際には長州をはじめとする力の論理の体現者たちの支配装置であった明治以後の天皇制国家や、その末裔である現首相に牛耳られた自民党政権の目指す国家像におけるそれとは違って、『神皇正統記』が語る「皇威」(天皇の権威)は、「力の論理」に対する抵抗をその本質としていると考えられるのだ。
そして次のような箇所を読むと、その根底にあるのは、戦乱の時勢によって苦しめられる民衆への作者の思いではなかったかと思えてくる。

所々に申はべることなれど、天日嗣(あまつひつぎ)は御譲(ゆづり)にまかせ、正統にかへらせ給にとりて、用意あるべきことの侍(はべる)なり。神は人をやすくするを本誓(ほんぜい)とす。天下の萬民は皆神物(じんもつ)なり。君は尊くましませど、一人(いちにん)をたのしましめ萬民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政(まつりごと)の可否にしたがひて御運の通塞(つうそく)あるべしとぞおぼえ侍る。(p157)

つまり、最も大事なことは萬民を苦しませないということであって、権力闘争を行わず、皇統の継続を正統のままに任せるということは、終局的には、その目的のための方法に過ぎない。ここでは親房はそう述べているように、私には思えるのだ。


もちろん、ここで描かれている「皇威」の論理がいくら魅力的なものだからといって、現在の天皇制にそれを当てはめることには、私はまったく反対である。
先にも書いたが、近代天皇制は、今日まで一貫して排他的な「力の論理」、権力の正当化のためには歴史の改ざんも行って恥としない連中のための装置として機能してきたのであって、その清算なくして、いかなる正義も寛容もありえないと、私は信じる。
だが、それでも、『神皇正統記』には、「力の論理」に屈することを拒みとおした者だけが持ちうる、他者への寛容の精神が豊かに示されていることは否定しがたいのだ。
最後にその一例となる文章を引いて、この稿を終わることにしたい。これは、親房が天皇の持つべき心得として仏教のあらゆる宗派(さらには、儒教道教などその他の内外の教えや、諸道、諸芸全般)を広く学び尊重することを説いた文章の一部だが、現代のわれわれは、それを自分たちの文脈に置き換えて、何かをくみ取るべきだと思う。

一宗に志ある人餘宗をそしりいやしむ、大(おおき)なるあやまりなり。人の機根もしなじななれば教法も無盡なり。況(いわんや)わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極(きわめ)たる罪業にや。われは此宗に帰すれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分の益(やく)あるべし。(p102 但し、都合で一部表記を改めた)