金大中と河野洋平

ETV特集で『キム・デジュン 肉声でたどる激動の生涯』というのを見た。
これは、金大中の政治家としての生涯を、いわゆる金大中事件を起点に、本人への過去のインタビューなど番組の映像をもとに振り返ったもの。
姜尚中河野洋平が、コメントを寄せていた。


こうして記録を見てみると、何度も生死の淵に立たされた、ほんとうに激動の政治家人生であったという思いを強くすると同時に、そのことが故人一人の体験ではなく、在日を含めたあの国、あの半島の人たちすべての歴史でもあったと感じられ、それと表裏をなして同時代の日本の社会が存在していたのだと、あらためて思う。
それは、たんに他者に対する罪責感のようなものとは違うのだ。むしろ、何か大事なものを失ってきた、という感覚に近い。


番組の最後に河野洋平*1が語っていた金大中に対する後ろめたさ、申し訳なさのような感じは、よく分かると思った。
とくに、あの金大中事件が、KCIAや外交官など一部の人間の行ったことであって、国家的な関与はなかったという結論はあくまで「政治決着」であり、事実が明らかにされなかったことに関して故人は最後まで苦い思いを抱いていたはずだという河野の言葉は、この「政治決着」による見解が既定の事実であるかのように番組中で語られていただけに、大事なことを述べていると思った。


この韓国政府の言い分、そして日韓の政府が合意した決着の内容は、民間人拉致事件についての金正日政権の言い分に酷似しているが、NHKはその朝鮮政府の言い分を客観的な事実のように報道するだろうか?
しないだろう。
だが金大中拉致事件(かつて日本で拉致事件と言えば、この事件を指した)に関しては、当時の韓国政府が表明し日本政府との間で決着したその言い分が、まるで解明された事実そのものであるかのように語られてしまうのだ。
そこに事実(歴史)というものを捻じ曲げる、現在の政治的な暴力を感じるのは、ぼくだけだろうか。


ただ、河野が語ったことに関して言えば、靖国神社に代わる国立の戦没者追悼施設の設立については、ぼくは反対だ。
自国の戦没者だけを、しかも兵士である戦没者だけを、国家の名によって追悼する施設というものが許されるであろうか?とりわけあの戦争に関して。
自国の兵士だけを追悼するという趣旨のものである限り、靖国神社も新たな国立追悼施設も、本質的には大差がないと思う。
そのことに象徴されるように、金大中氏の思いに報いるということは、「現実主義的な」政治家でもあった氏が望んだ通りのことを実行するということではない。
われわれは主体的に、望まれた以上のこと、むしろ本来ならば(われわれが多くの後悔や後ろめたさを感じないですむような歴史、とりわけ現代史が刻まれていたなら)望まれるべきであったことを行う必要があると思う。
この点が、河野氏たちのスタンスには同意できない点である。

*1:今のところただ一人の、総理になれなかった自民党総裁だが。