京丹後・基地問題のドキュメンタリーを見て

以下の催しに行ってきたので、感想をここに書いておきたいと思います。


☆丹後フェス☆
http://blog.livedoor.jp/noarmydemo/archives/40575954.html


都合で、僕はドキュメンタリーの上映と、コンサートの一部(長野たかし&森川あやこのお二人。すごく良かったです)しか見られなかったのだが、ここではドキュメンタリー(毎日放送制作の『見えない基地〜京丹後・米軍レーダー計画を追う』)を見ての感想を書きたいと思う。


気になったことだが、ナレーションの中で、建設が望ましくないことの理由として、「北朝鮮などのミサイルの標的にされるから」とか「テロの標的にされかねない」といったことが、強調されていると感じた。
つまり、「北朝鮮」や「テロリスト」などの「敵」の攻撃にさらされることになるから、基地建設は問題だ(そのように住民は感じてるはずだ)という論調である。
このような不安を、実際に現地の人たちが抱いているのかも知れないが、しかし、そのことと、マスコミなどが、それを不安や問題点の中心のように報道するということとは、別の話ではないかと思う。
これでは、「住民の不安」ということを理由にして、メディアが差別的・排外的な感情を是認し強化する役割を果たしてしまっていることになるのではないだろうか?
これはもちろん、この番組だけではなく、マスコミなどでこうした問題が(基地建設に疑問や反対を呈する立場で)取り上げられる場合に、一般にある傾向だと思う。


いや、このような論調は、マスコミだけでなく、反対運動の中にも少なからず見られるものだろう。
だが、そもそも、「敵が攻撃してくるから」というのは、基地を作る側が理由として挙げているものであり、その土台に乗っかって「基地建設反対」を言うことは、政府や米軍の主張を補強していることになりかねないのではないか?
日本の軍事力の増強は、朝鮮や中国、またイスラム教徒などに対する差別的な感情をテコにして進められようとしていることは明らかなのに、こうした「敵」の「脅威」を自明のものとする言説が、基地建設反対の側にさえ見られるのは、困ったことだと思う。


また、このドキュメンタリーでは、米兵による犯罪への懸念から、青森にあるレーダー基地の現状が紹介されたりもしていた。これは初めて知ったことだが、この地域(京丹後)は、敗戦直後に米軍が駐屯していたことがあったらしく、その頃の負の記憶を今も持っている高齢の方もあるらしい。
たしかに、米兵の犯罪については、沖縄でも韓国でも、また日本の他の各地でも、深刻な問題になっている。
だが、上記の事柄(ミサイルや、テロの脅威)と同様に、米兵の犯罪への懸念ということも、それが報道や言論の中で独り歩きするなら、差別や排外主義に転化しかねないものではないかと思う。
つまり、そうした言論は結局、戦争遂行の歯止めにはならないのだ。
問題は、「基地の危険」を言う場合に、反対運動や反対論的なメディアが、どこにその危険(暴力)の本質を見るかということだろう。


原発反対運動において、「障害のある子どもが生まれるから」原発はいけないという差別的論調があるが、これは「北朝鮮」や「テロリスト」の脅威を自明の前提にするような排外的基地反対論と同じで、問題の本質を見誤ったもの(体制内的言論)だ。
原発や基地を建設することが悪であるのは、それらが自然や人々の生活を、不当に破壊し、変更させる暴力だからだ。戦争そのものも、この暴力の延長線上にあるものだと言える。
現地の人たちは今、降って湧いた基地建設によって、土地を奪われ、これまでの生活のあり方の変更を(権力と金の力で)強いられるという、酷い暴力にさらされているのだ。
これこそが、基地建設という暴力の根幹であるはずだ。


そして、もうひとつ大事なことは、このような不当な社会的暴力は、そもそも、原発や基地の建設という話が降りかかる以前から、「過疎」を強いられた地域に住む人々の生を襲い、蝕んできたものであるはずだ、ということだ。
僕は、原発や基地建設に反対する言論や運動は、この、元々の暴力の構造の告発と解消に向かうのでなければ、結局、無力だと思う。
僕が、このドキュメンタリーを見て、最も痛切に感じたのは、実はそのことなのである。


僕には、「北朝鮮のミサイル」とか「テロの標的」とか「米兵の犯罪」といったことへの不安が、現地の人たちの中にどのぐらいあるのかは、分からない。
だが、これらの不安が、現地の人たちにあるとすれば、それは、そもそもこの地域の人たちが、「過疎」を強いるような戦後の日本社会の構造の中で感じてきた、孤立感や不信感の反映であると思う。
少なくとも、僕らのような都市部に住む人間は、そのことを自覚する必要があるだろう。
原発」や「基地」のような、突然降りかかった外からの脅威を排除して、元々の自然を回復しようという話ではなく、そもそもこうした地域の人たちが、長年にわたって被り続けてきた暴力と排除と搾取にこそ、目を向け、僕らは反省しなければならない。


そして、社会の中で感じている孤立感や不安感を糸口にして、排外主義を煽られ、戦争の遂行へと動員されていくという図式は、実は都市に生きる僕たちの日常とも共通するものであろう。
戦争の暴力は、すでに「平和」と考えられているこの日常の中に、十分に芽吹いているのであり、だから戦争を阻止する契機も、この日常の中以外にはありえないはずなのだ。
暴力的・差別的な日常を「回復」する(それは、国家に都合の良いイデロギーだ)のではなく、抵抗の中で、元々存在していた暴力、僕たち自身がそれに加担していた暴力を直視し、解消することにこそ、向かうべきなのだ。