『カタロニア讃歌』

カタロニア讃歌 (ちくま学芸文庫)

カタロニア讃歌 (ちくま学芸文庫)



はじめて読んだのだが、僕は読むまでは、この本はスペイン内戦時の共和派の内部抗争、つまりスターリン政権とコミンテルンとの意志を体現した当時のスペイン共産党による、「トロツキズム」グループやアナーキストに対する迫害を主題にしたドキュメントだと思っていた(とりわけ冷戦期やその後の一時期には、このような作品解釈が支配的だったのではないかと思う)。
実際、それはここに描かれている主要な出来事の一つではあるのだが、オーウェルのこの手記のベースになっている感情や思考は、そこに向けられているものではない。この本はあくまで、彼が体験した、スペインという国における革命の記録であり、「スペイン」(とりわけカタロニアではあるが)と「革命」という二つのものへの、心からのオマージュのような書物だ。
その心情の率直さに、何より心を打たれた。


オーウェルは、スペインの人々に、人間的な大きな共感を寄せているが、とりわけカタロニアに対する思いは、「革命」と呼ばれる事態と深く結びついている。それは、彼が従軍した当時のカタロニアでは、ポウムと呼ばれる非共産党系で革命志向の強いマルクス主義グループや、アナーキストのグループによる統治が行われ、町でも軍隊内部でも、革命的な状況が(一時的に)現出していたからである。
カタロニアにおける「義勇軍」と呼ばれた共和派の軍隊の内部では、士官と兵士との身分的平等が、ほぼ実現していたという。それは、町の中でも同じで、男も女も、全ての人々が互いを「同志」と呼び合う無階級的な社会が成立しているかのような光景が、オーウェルの眼前に展開され、深い感銘を与える。

そこには、ぼくに理解できぬ、ある意味では気にくわぬものがあったが、この事態がそのために戦うに値するものであることは、すぐに見てとることができた。(p020)

やがて、その理想郷のような光景が外観ほどに確かなものではなく、崩れ落ちていく様をオーウェルは体験することになるのだが、しかし、その過酷な体験にも関わらず、この最初の「革命」の印象は、最後まで著者の心をつかみ続けるのである。

それでもぼくらは、むしろスペインにとどまって、みんなと一緒に投獄されればよかった、と思ったのだ。スペインでの何ヵ月かがぼくにとって何を意味したか、じゅうぶん伝え得なかったのではないかと思う。外面的な出来事については書きつらねた。しかし、それがぼくに残した感情は、書くことができない。(中略)こういう悲惨な出来事を目にしても、結果は必ずしも幻滅とシニシズムだとはかぎらない。(中略)ふしぎなことに、スペインでの経験は、人間の人間らしさに対する、ぼくの信念をふやしこそすれ、へらしはしなかった。(p328〜329)


オーウェル自身は、ポウムの義勇軍に参加したのであり、またアナーキストのグループに対する共感も示している。例えば、このように書いている。

アナーキストは、そのよって立つ原理はあいまいだが、特権や不正を憎む気持が真剣である点で、革命家と称する存在と正反対だった。(p093)

つまり、彼は共和派内部、左翼内部の抗争においては、ポウム(「トロツキスト」という否定的なレッテルが貼られた)やアナーキストの側に立っている。オーウェルは、スペイン戦争の本質を革命の遂行と捉えており、ファシズムの脅威から市民社会や民主主義を守ることこそ喫緊の課題だとする共産党の態度(いわゆる人民戦線路線)を批判する。
だが、その理由は、あくまでポウムやアナーキストの側が「革命」を本心から志向していると彼には思われたからである。

理論上は、コミュニスト共産党)の主張のほうがよかった。問題は、かれらの現実の行動を見ると、その主張を本気でおしすすめようとしているとは信じられなかったところにある。(中略)コミュニストがしようとしていたのは、スペインの革命を適当な時期まで延ばすことではなくて、それを二度と起こらなくすることだった。(p101)

つまり、こうした党派的な対立はいわば二次的な重要性しか持たないものであり、彼の最大の、そしてほぼ唯一の関心は、革命ということ、すなわち虐げられた人間たちと資本家階級やその手先であるファシストとの闘いという一点に向けられていたことを、忘れてはならないだろう。


同時に、この本で忘れがたいのは、ファシストフランコ)軍との内戦の戦場の描写である。
そこで繰り返し描かれるのは、疲労と不快と飢餓に悩まされ続け、戦争の大義など考えられなくなる、戦場の兵士の日常だ。
特に強烈な印象を受けるのは、野戦の現場を覆う膨大な排泄物(「糞」)の存在だ。それは、何よりもまず肉体であらざるをえない兵士と、その兵士によって行われる戦争というものの、あからさまな実態を示しているものだと思う。僕はそれを読んで、戦争ではないが、関東大震災直後の東京の公衆便所の衝撃的な光景を描いた、中野重治の『歌のわかれ』の最後の場面を思い出した。そこには、戦争とファシズムの時代に対する、共通した直観のようなものがあるのだろう。
そして、オーウェルを激しく憤らせるのは、こうした戦場の現実を何も知らない連中ばかりが、戦争に関してさまざまな空言をわめき、憎悪や誤解を煽り立てるということである。

戦争においていちばん恐ろしいことは、戦争について書きたてられることが、悲鳴も嘘も憎悪も、すべて自分は戦闘に参加しない人の口からでるということだ。(p098)

こういう記事を書いた人は、戦闘に参加したことがないにきまっている。たぶん、その代りにこういうものを書いているつもりなのだろう。(p099)

こういうオーウェルの率直な怒りの表明を読むと、彼の「革命」に対する強い憧れがどこから来ているものかを、少し理解できる気がする。
彼は、日常を生き、戦場に連れてこられて疲弊したり殺されたりし、その生と死を利用されたり、歴史の中で忘れられたりするような、人間の小さな生存のあり方を守ろうとしているのだ。それを踏みにじり、人間が当たり前に生きていくことを抑圧し蹂躙する力として、大資本の支配やファシズム全体主義というものを、彼は憎んでいる。
あれほどの過酷な経験をしても、なお彼がスペインの人々の人間性に寄せ続ける共感の強さも、この権力に対する怒りの激しさの裏返しだろう。


終りに、内戦がフランコ側の勝利に終わった後に書かれたという「スペイン戦争を振り返って」というエッセイの中から、ファシズムの本質をなす悪しき「嘘」の力についての、オーウェルの意義深い言葉を紹介しておきたい。
ナチスファシストが行った、事実をまったく偽った「宣伝」の悪質さに関して、彼はこう書いている。

こういったことは、ぼくには恐ろしいことに思える。客観的事実といった考え方そのものが、世界から消えていくように、しばしば感じられるからである。結局のところ、こういった嘘、少なくともこれに類似した嘘が、歴史の中にくりこまれて行くのであろう。(p349〜350)

また、ファシズム側だけでなく、反ファシズム側の嘘にも言及しながら、次のように続ける。

実際に戦争を記憶している人たちが死んでしまえば、その歴史が一般に受けいれられるのだ。こうして、事実上、嘘が真実となってしまうであろう。
どうせ書かれた歴史などというのはみんな嘘だ、というふうに言うのが今の流行であることは知っている。歴史がたいてい不正確で偏向をもっていることを、ぼくはすすんで認める。しかし、現代の特徴は、歴史が真実をもって書かれ得るという考え方そのものが放棄されたところにある。(p350〜351)

立場の違いによって、さまざまな歴史解釈というものがあるのは当然だ。だが、

それでもなお、両者が本気では否認しない、いわば中立的事実ともいうべきものが存在したのである。まさに、人類はみな人間であるという意味を含んだ、この共通の合意の基盤こそ、全体主義によって破壊されたものなのである。ナチスの理論はまさしく、「真実」などというものが存在することを否定している。(中略)もしも総統がしかじかの事件について「それは起らなかった」と言えば、それは起らなかったことになる。もしも総統が二タス二ハ五ダと言えば、二タス二ハ五になる。この予測は、ぼくには爆弾よりずっと恐ろしい。ここ数年の経験からすると、これは冗談ではないのだ。(p351〜352)

まったく、冗談ではないと、僕たちも唱和せざるをえない。
このオーウェルの鋭い言葉から読み取れることは、彼が「全体主義」と呼ぶような政治・社会の体制においては、人間への信頼の根幹に関わる、事実への「合意の基盤」が破壊されるということである。歴史への不信は、本質的には、この破壊の結果(効果)であって、原因ではない。
歴史修正主義が幅を利かせるような社会においては、すでに人間への信頼の基盤は、大幅に破壊されている。だとすると、彼が「全体主義」と呼んで憎んだものとは、実は僕たちが日常を生きている、この社会体制に他ならないことが、よく分かるのだ。
つまり、今なすべきなのは、この社会体制を、人間を守り解放するものへと変えること、すなわち革命の行為だということである。