前回の梗概

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究


内容はほぼ繰り返しになるが、ちょっと気になるので、前回書いたことの梗概のようなものを書いておきたい。


僕はずっと、「リベラル」といわれている政治的な考え方の定義が分からなかったのだが、ハーバーマスのこの本を読んで、それは「広義の自由主義」のことだと言っていいのではないか、と思った。
「広義の自由主義」を、この本の内容に沿って定義すると、ヨーロッパの近世・近代において、私有財産制と自由市場の形成を背景に発達した、市民の論議による政治遂行の思想のことだ。王侯貴族や教会や大権力者といった、一部の支配階級ではなく、市民(ブルジョア)の論議によって社会のあり方を決して行こうとする考え方。これは基本的に、いわゆる立憲主義(市民の力で強権に制限を加える)のもとになっている考え方だと言っていいだろう。その核心をハーバーマスは、「政治権力の合理化」と表現していると思う。ここでの合理化とは、理性的なものにする、という意味である。


ハーバーマスは本書のなかで、そうした政治思想や制度の限定的な性格(いわば欺瞞・擬制であり、幻想でもある)を明確に描いている。
それは一つには、これがあくまで私有財産とか自由市場といったシステムを守るために考え出された政治思想であり、また、そのようなシステムが国家などの強権から分離して、自律的に存在しうるものだという幻想の上に成り立っているものだ、ということである。
歴史上、この自由主義、あるいはリベラル思想というものが、安定したイデオロギーとして信じられたのは、唯一、18世紀後半から19世紀にかけてのイギリスにおいてだけであった。その背景には、大英帝国の強大な軍事力を背景にした政治的・経済的安定という、歴史的僥倖があったことは言うまでもない。つまり、リベラル思想というものは、国が傾いたり危機に陥れば、簡単にメッキが剥げてくる、ということだ。
リベラル思想は、権力の暴力性(非合理性)を批判するけれども、それが成り立っている基盤は、実は権力の暴力的実体に他ならない、ということである。だからこの思想は、自己を成り立たせているその実体に突き当たると、必ず後退してしまう。鳩山元首相の、沖縄の基地問題をめぐる態度変更などは、その非常に見やすい例だろう。
国家も資本主義(自由市場)も、実際には競争的な原理のもとに成り立っているものであるが、そういう現実に、このリベラル思想の理念は適合していないのである。
また、この思想の限定的な性格ということの、もう一つの大事な面は、それが初めからメンバーを限定している、ということである。もちろん理念としては、それは「全ての人々による論議」という方向に行きうるが(例えば、婦人参政権とか、普通選挙とか、公民権運動とか)、それはいつでも、十分なものとは言えない。常に排除というものが生じている。排除が生じているのに、「全ての人々による論議」がなされているかのように語られる。このことの欺瞞性である。これについては、マルクス主義者や左翼だけでなく、フーコーやその弟子のサイードなどによる(ハーバーマスへの)批判も、よく知られている。


そういったことはあるのだが、それでもハーバーマスは、この「広義の自由主義」の基盤となった、彼の言う市民的公共性の持つ歴史的意義を、非常に高く評価した。
人々による公共的な論議によって、政治を行い社会を作っていく、その道筋を示したものは、この市民的公共性自由主義の思想以外にはないではないか、というわけだ。

・・・公衆が自分の存在と行為として信じていたものは、イデオロギーであるとともに、単なるイデオロギー以上のものであった。一階級の他階級に対する支配が依然として続く土台の上で、この支配はそれにもかかわらず、それ自身の止揚の理念を真実味をもってその客観的意味として取り入れる政治的制度を発達させたのである。(中略)イデオロギーという言葉が、社会的に必然的な意識をその虚偽性において示唆するのみでなく、既存体制をしてたとえ単に護教的にせよ自己自身をユートピア的にこえさせることによって真理であるような契機もイデオロギーに含まれているのだとすれば、イデオロギーというものは、そもそもこの時代以後になってはじめて存在するのである。(p119)

なぜ、ハーバーマスはリベラル思想(市民的公共性)に大きな意義を見出すのか。僕がポイントだと思ったのは、前回引いた、カントの思想をルソーのそれに対比させた一文である。

この場合(カントの)論述は全くルソーの論法に従っているが、ただひとつの点が決定的な例外になっている。それは、人民主権の原理は理性の公共的使用を前提条件としてのみ実現されうる、という点である。(p148)

ハーバーマスが重視しているのは、公衆による論議(理性の公共的使用)には、政治的議論が自己を反省的に修正していく可能性が内在している、ということである。ルソーの言うような人民主権の考え方には、この契機が欠けている(したがって必ず、全体主義のような形で、権力の非合理化が生じる)と、ハーバーマスは考えているのである。
いや、自己を反省し、他者との関わりの中で自己の考えや態度を修正していくということこそが、「理性的」という語の本当の意味なのではないか。それは恐らく、「理性中心主義」という言葉によって、簡単に否定できるようなものではない。
ハーバーマスという人はこの意味で、他者との共存的な関係の確保ということを、その思想の眼目にしているのだと思えるのである。


本書の後半で示された、戦後の社会に対する分析も、前回書いたように、驚くほかない鋭さを示したものである。
1950年代の末に書かれたと思われる文章が、現在の社会と政治の根本的な部分を言い当てているように思えるのは不思議な感じもするが、考えてみると、それは今日ではネオリベの専売特許みたいに思われている「公共性の破壊」という現象が、消費社会という形態のもとに、当時からすでに顕著に現われていたということを示しているのだろう(ナチスの宣伝戦略と、戦後の消費社会とは、この線で明らかにつながっている)。
この部分で重要なのは、「文化消費」をめぐる問題とともに、政治の「広報活動」化による公論の衰退という指摘だ。ハーバーマスは、広報活動によって形成される(また世論調査によって見出される)民意が、議論のなかで形成される公論とは、無縁なものだということを強調する。

(前略)なぜなら、宣伝心理学的目的でなされた公約は、客観的にはどれほど時宜にかなったものであるとしても、主体たちの意見と意識によって媒介されたものではなく、主として下意識によって媒介されたものだからである。(中略)公共性は、それ自身の理念によれば、その中で原理的に各人が同じ機会をもって各自の好みや願望や主義を申告する権利をもったというだけでは、民主主義の原理となったのではない。このようなものは、ただの意見(opinions)にすぎない。公共性は、これらの個人的意見が公衆の論議の中で公共の意見、公論(opinion publique)として熟成することができたかぎりでのみ、実現されえたのである。(p288)

熟成された公論の形成ということは、どの国においても難しくなっているであろうが、もともと市民的公共性が形成される不可欠の条件である「個人的意見」が確立されにくく、また公共的な論議の慣習そのものがほとんどないと思われる日本社会においては、公論と公共性との衰退・破壊は、目を覆うほかないものだ。
ハーバーマスは本書で、民主的な政治を保障するべき公共性が、現代社会のなかで確保されるための制度的な基盤として、福祉国家(再配分)を位置づけようとした。その基盤の徹底的な破壊によって、公共性に息の根は、いままさに止められようとしているのだ。