『チスル』

四月十日に、上映中の韓国映画『チスル』を見ました。
その時に、一応感想を書いておいたのですが、まだ見てない人が大勢居るようだったので、先入観を与えては悪いと思って、アップしていませんでした。
まだ上映は続いてますが、関心のある方は多くが見られたようなので、このあたりで感想を載せておきます。見た時に書いた文章、ほぼそのままです。


この映画の冒頭は、深い霧か、もやの中のような場面から始まるのだが、それがどういう状況なのか、はっきり分からないうちに次の場面に移行する。
また映画の後半、非常に重要な場面でも、濃い煙が物語に大きな役割を果たすことになる。
この作品を象徴するものの一つは、完全に晴れることのない、この霧や煙だろう。


映画の前半では、物語の展開に、うまく入っていけなかった。
その大きな理由は、このいわゆる「4・3事件」が発生するまでの経緯がほとんど説明されていないことだろう。
無差別虐殺の前段として、軍政下での単独選挙に反対する武装蜂起が済州島に起きたことや、住民の中には、蜂起に加わらないまでも、立ち上がった人々に共感したり、密かに協力する人が少なくなかったというような事情については、この映画では、まったく語られない。
村人たちは、外部の世界の動きに、まったく無知であり無関心な人々として描かれている。彼(彼女)らは、何らの政治的な意志も持たずに素朴な日常を送っていたが、ある日、まるで台風のように到来した「虐殺」の犠牲となって死んでいく。そういう描かれ方になっている。
もちろん、3万といわれる虐殺の被害者の大半は、政治や蜂起とは縁遠い人々だったのだろうし、そうした政治的側面をクローズアップすることは、「アカの島」というレッテルを貼って虐殺を行った側の言い分に与することになりかねないから、そうした要素をあえて描かないという選択は、理解できなくはない。
しかし、この住民たちが虐殺されることになった客観的な経緯が、ほとんど説明されない、いや、その手掛かりさえ示されないことによって、物語全体が、どこか幻想的あるいは過度に象徴的な、現実離れした印象を与えるものになっている。
そのことが、僕がこの映画に入り込みにくかった理由だと思う。


また、軍人たちについても、その軍隊生活の過酷さは描写されるが、彼らが「アカ」に対して抱く理不尽な憎悪の背景に何があるのかも説明されない。そのことも、この映画が、現実のある側面を、あえて描かず封印したことの表れであると思える。
結局、この映画で描かれるのは、突然の悲劇に見舞われる村人たちの無垢さと無力さであり、理由の分からない憎悪と暴力に駆りたてられていく軍人たちの、哀れともいえる姿である。
それは、たしかに虐殺というものの、人間にとっての意味を正確に描いてはいるだろう。大枠の政治や理念より、そのように殺し殺される人間の姿を想像し、感じとることこそが、この歴史の大きな悲劇に対面する、根本の姿勢であるのかもしれない。
しかし、同時に、この映画からは、現実のある重要な側面が、取り落とされている、あるいは、あえて触れられていないのではないかという、欠落感のようなものが、どうしても感じられてしまうのである。


だが、見終わってから考えてみると、そのことは、この歴史上の出来事を映画にするということが、今でも韓国においてはどれだけ困難なことかを示しているのだろうと、気がついた。
朝鮮半島と韓国という国が置かれた状況を考えると、4・3事件に関して、まだ正確に語れないこと、知ることも出来ないこと、知っても整理できず、したがって、十分に表現できないことが、たくさんあるということを、この映画は何よりも訴えているのだろう。
それはとりもなおさず、4・3事件が、韓国の人たちにとっては、いまだに「過去」になっていない、ということである。
映画に登場する、あの霧や煙は、その脱け出せない苦しみの象徴でもあるのだ。
「分断」も「憎悪」も、虐殺の傷と記憶も、この国の人たちにとっては、まだ決して「過去」のことではない。もちろんそのことは、4・3事件に関してだけ言えることではないのだが。
その苦しみと戦いながら、今の韓国の社会において、大きな作品として映画化できるぎりぎりの線のものとして、自国の国家権力の悪を告発した、この作品は作られたのだろう。
そのことは、我々の国が敗戦から70年近くたっても、いまだに自国の国家権力がなした悪と向き合えず、そもそも努力さえ放棄してしまっていることと対比するなら、驚くべき営為だと言わざるをえない。
しかも、韓国の人たちが負わされてきたこの苦しみの、きわめて大きな源は、植民地支配と戦争を行った側である、この我々の国と国民との、そのネグレクトにこそあるのだということを考えれば、この映画の訴えを正しく聞き取る責務が、とりわけ誰にあるかということは明らかだと思う。