『ムッソリーニとファシズム』

ムッソリーニとファシズム (文庫クセジュ (566))

ムッソリーニとファシズム (文庫クセジュ (566))


この本は、ファシズムを絶対悪とするような観点から書かれたものではない。
そのことは、「むすび」に記された次の一節を読めば明らかだろう。

ファシズムがイタリアを強大国に仕立てあげたことはまちがいないが、反対にこの国を歴史上最大の悲劇的結末に導いたこともまたまぎれもない事実である。(p154)

つまり、20世紀前半のイタリアに現われた固有の現象(運動と統治)としてのファシズムを、その功罪両面について考察した本なのだ(著者はスイス人)。
だが、それだけに、ファシズムという一般的現象の構造を示すことに成功していると思える。


まず大事なことは、ムッソリーニファシズムが、国家への権力集中にもとづく(反自由主義的・反共的な)社会改革の運動として、国内外からの支持を集めたということ、またその政権は、少なくともある時期までは一定の政治的・経済的成功(実績)を収めたということである。
この「支持」ということについて言うと、著者が強調するのは、ムッソリーニの権力掌握が、その暴力的にして周到な戦術の成果である以上に、むしろ、支配層や保守的な市民たちの意思による選択の産物だったということだ。
左翼勢力との内戦的な状況下でファシスト党がその優位性を固めていった1920年頃の、支配階級の行動について、著者はこう書く。

彼らはファシスト運動こそ共産主義者による社会革命の砦になってくれると考えるようになり、これに資金を流しはじめたのである。この国の社会に無秩序と不安定が定着しはじめたのは、このときからであった。(p51)

また、ムッソリーニの「政権掌握劇の圧巻」とされる「ローマ進軍」に関しても、

実際にはそれほど華々しい出来事だったわけではなく、それもムッソリーニの力によるというより、むしろこの国の名望家たちが自由主義的なイタリアの実現をあきらめた結果、成功したものとみるほうがより適切である。(p55)

と書いている。
しかも、このような、ファシズムへの宥和的・好意的な態度は、決して国内だけのものではなかった。
ここでは政権獲得後、1920年代後半の状況についての記述を引いておこう。

当時まだ、国際世論の大半はファシズムを美化して考えていた。保守的ブルジョア階級や右翼の連中は、ファシズムのもつ非道徳性、腐敗性を見落とし、おりから自由民主主義が停滞をみせていたこともあって、次々と新しい手法を編み出していくファシズムの活力に魅力さえ感じていたほどである。(p81)

つまり、国の内でも外でも、保守主義者やブルジョア階級の多くは、ただ反共という目的のために利用するというだけではなく、ムッソリーニファシズムに魅了され、熱心な支持を与えていたことがうかがえるのである。
彼ら(資本主義世界の権益者たち)は、功利的な目的からも、またもっと情動的・共感的な理由からも、ファシズムを支持していたというわけだ(なかでも、チャーチルムッソリーニに対する高い評価は、よく知られている)。



ファシズムという政治運動の性格を体現していたとも思える、ムッソリーニの狡猾にして周到な政治手法を、本書は生き生きと伝えている。
そもそも社会主義の熱心な活動家だったムッソリーニの(第一次大戦開戦の時機にあたっての)ファシズムへの転向が、無定見な機会主義的態度にもとづくものだったことを、著者は指摘する。

ただひたすら行動を求める個人主義者であったムッソリーニは、社会主義にかぶれているとはいいながら、それにははっきりした理論の裏打ちがあったわけでなく、それよりもむしろ個人的な野心を実現したいという欲望と、そのためには好機をのがすまいという意識の方が強かったのである。戦争の勃発によって、ムッソリーニはそれまで社会主義革命をもってしてはできなかった旧秩序の破壊という事業をやり遂げるための好機が訪れたとみたわけで、・・・(p38)

また、政治的な無定見さと能弁(デマゴギー)によって人々を翻弄し、精神的な支配を確立していくその手法は、この時期にムッソリーニが党員たちに発した次のような檄に、よく示されていよう。

「われわれは、時と場所と状況とに応じて、貴族主義と民主主義、保守主義進歩主義、反動主義と革新主義、合法主義と無法主義を思いのままに使い分けようではないか」(p47〜48)

そして、いったん権力を握るや、彼は露骨な暴力と脅迫による統制の遂行の一方で、慎重で周到な人心掌握術を駆使して、その地位を固めていくのである。

『体制への反対者としての過去が大きく、しかもさしたる政治的教養もなければ、政府部内で働いた経験もなく、議会での経験にも欠けていたムッソリーニではあったが、ひとたび勝利を手にするとこれを巧みに利用し、あらゆる権力を一手におさめて人心の動揺を回避するのに成功した。(p58)

ローマ進軍のあとムッソリーニは、国内に対すると同様、対外的にも自分自身を心配のない調停者であると見せかけるよう努めた。(p101)

人々は、彼の自信に溢れた弁舌にただ騙されたというのではなく、むしろそうした、権力掌握術の(マキャベリ的な)「巧み」さにこそ、悪の魅力のようなものを感じ、幻惑されたのではないだろうか?
いわば人々は、すすんで「夢」に溺れようと欲したのである。
これこそ、ファシズムという現象の核心をなすものだと思う。

ムッソリーニのこのような無定見さは、目先のきく政治的直観力として一時こそもてはやされたものの、やがて第二次世界大戦の難局を迎えると、それも実は無為無策でしかないことが暴露された。(中略)というわけで、ファシズムとは、その主導者たるムッソリーニの人柄そのままに、実はそのときどきの客観情勢に応ずるための絶えざる日和見主義の連続でしかなかったことは、その初期の困難な時代と変ることがなかったのである。(p43)

次に「実績」についてだが、長期にわたったムッソリーニの政権は、特にその前半期(1922年から1930年頃)には、大きな経済的成功を収めることができた。
それについて、著者は、こう書いている。

政権獲得直後の難局を乗り越えてファシズムがこの国に定着することができた理由としては、一九二九年にアメリカで恐慌が起きるまで世界経済が比較的息の長い好況に恵まれたことをまずあげなければならない。(中略)言論が統制されたので、国民は世界情勢についての客観的な情報をしだいに得にくくなっており、政府はこれをよいことに、国内事情の改善はすべてファシズム政権あってのことと宣伝した。(p66)

ムッソリーニ自身、先にも書いたように、元々社会主義の活動家であり、ファシスト党の政策も、国家への権力集中による社会改革という、社会主義と見分けのつきにくいものだった。
著者が、結党当初の頃の実状について、

そのころ誕生しつつあったファシズムは、その国家主義極左主義という二つの思想ときわめてまぎらわしいもので、むしろこの二つの思想を都合のいいような形で取り入れ、これを集大成したものといってもよかった。(p46)

と書いているのも、もちろん上記のようなムッソリーニファシズムの、無定見さや機会主義的な政治姿勢が関わっているとはいえ、正鵠を得ているところもあるのである。だからこそ早い時期には、後に反ファシズム闘争の精神的支柱となる大知識人ベネデット・クローチェをはじめとして、きわめて多様な人たちがムッソリーニ政権に協力したのだろう。
政権獲得後の、経済的成功をもたらしたムッソリーニの政治が、こうした国家への権力集中による社会改革という方針の実行によるものでもあった(少なくとも、そう見なされた)ことは重要だろう。
「協調組合国家」、計画経済、数々の社会立法による人口増殖、大規模な農地開発などによって特徴づけられるその政策は、やはり上記のように世界的な好況下で、生産力の大幅な増大をイタリアにもたらした。
この時期にムッソリーニが作り出した仕組みのいくつかは、第二次大戦後のイタリアの驚異的な経済復興の礎にさえなったのである(この意味で、イタリアは、日本ほどではないにせよ、戦前と戦後の連続性が強い社会だと考えられる)。
こうしたファシズムによる改革政策の成功は、同時代の日本にも大きな影響を与えたと思われる。三木清らが関わった協同主義の運動や、花田清輝ファシズム系団体への入会なども、たんなる転向とか偽装転向といったこと以上に、こうしたファシズム的改革への投企という側面があったとも考えられるのである。
だが、そうしたムッソリーニの成功も、「大恐慌」を契機として、次第に破たんしていく。
それまで人々を魅了してきたムッソリーニの、一見自信に満ちた、狡猾でデマゴーグ的な政治手法が、その空虚さをあらわにしていき、イタリアの政治は戦争の拡大と、ヒトラーのドイツへの全面的追従へと、大きく舵を切っていくのである(反ユダヤ主義政策の導入も、ドイツ追従が決定的となった後の1938年に始まるものだという)。

経済危機の解決策として、ムッソリーニは軍備の拡充に力を注ぐとともに、植民地の拡大、帝国主義政策に活路を見いだそうとしていた。イタリアは急速度で戦争に駆り立てられていたのである。(p77)

このようにしてファシズム政権は一九三六年を境に、ドイツとの協力、そしてやがてはドイツへの屈従に歩を運ぶことになり、しだいに軍国主義の風潮を強めていくのである。(p112)

とりわけ、ドイツが拡張政策をとりはじめた当初は、英仏と結んでこれを牽制しようとするなど、自立的な外交政策をとっていたムッソリーニが、次第にヒトラーの威光に屈していく過程は、ファシズムの独裁者らしい権威主義的な性格が如実に示されていて興味深い。
決定的な転機となった、1937年の枢軸協定締結に際してのヒトラーとの会見に関して、著者は次のように書いている。

このときムッソリーニヒトラーに「比類なき世界一の政治家」と言葉巧みにおだてられたが、ドイツの国力をまのあたりにして心理的に大きく圧倒されたのである。その結果、それまでもっぱら自主的な判断で行動してきたムッソリーニも、これを転機にヒトラーに追従することに踏み切るのである。(p115〜116)


ムッソリーニファシズムの主要な性格をなすと思えるのは、権威主義や機会主義、またデマゴーグと狡猾で場当たり的な術策による権力獲得といったものであり、その一方で、共産主義や抵抗運動などの敵対勢力に対しては、露骨な暴力的支配を敢行して抑え込んだ。
国内には暴力と脅迫による統制の雰囲気が支配し、議会も司法も、「統領」ムッソリーニの力の下に屈する他はない時代だったのである。
だが繰り返すが、運動の台頭の時期からの長い年月にわたって、国内外のブルジョア社会(資本主義・自由主義社会)は、第二次大戦の開戦という決定的な破局に至る直前まで、ムッソリーニファシズムの、こうした「非道徳性、腐敗性を見落とし」、その活力に魅惑され続けた。
そのような、資本主義社会の抑え込まれた欲望こそが、ムッソリーニを権力の座に就け、またそこに置き続けた最大の要因だということは、本書から言えそうである。
そして、そのことは必ずしもネガティブな意味合いだけでなく、このファシズムという運動の隆盛には、資本主義や自由主義の限界を(共産主義とは当面違った仕方で)越えたいという人々の漠然とした気持ちが込められていたことも、また歴史の事実としておさえておくべきだと思われる。