ホブズボーム『いかに世界を変革するか』

 

 

 

 

 本書に書かれているホブズボームの考え方の大きな特徴は、マルクスの思想の発生とその後(現代まで)の動向を、特に19世紀で(これも特に)西洋で極めて有力になった思想潮流の展開の一部として位置づけていることである。

 その意味で、単純な経済決定論的な考え方ではない。もちろん、マルクスの思想の最重要部分、そしていま現在、私たちにとってのその重要性の本質をなしているものが、主著『資本論』に示された、資本主義経済システムの分析にあることは、言うまでもないだろう。

 だが、マルクスの思想のすごさは、その経済学が、社会学歴史学などの他の人文科学と一体・不可分をなしているという総合的な性格(マルクスエンゲルスの時代には、自然科学との統合も本気で考えられていた)にあるのだということを、ホブズボームは強調する。

 そこで、その「思想潮流」だが、それをかりに、「理性・啓蒙・進歩」という三つの理念で表してみたい。マルクスマルクス主義は、そうした理念を、同時代のさまざまな運動や思想・文化と共有してきた。

 このうち、「進歩」(主義)については、たとえば環境問題(反原発を含む)に関して、それがマルクス主義の弱点ともなりがちであることは、よく指摘されるところだろう(とはいっても、本書のなかで特に読みごたえのある章の一つである第7章では、マルクスの重要テクスト『経済学批判要綱』を論じて、その歴史観が決して単純な進歩史観などではなかったことが強調されている)。

 そして、「理性」や「啓蒙」について言えば、それらを攻撃対象としたファシズムとの対決が、広範な人々にとって最重要の課題となった1930年代に、マルクス主義が空前の(そして絶後といってもよい)共感を広げ、影響力を発揮したことは、いわゆる「人民戦線」路線がスターリンの戦略に他ならなかったという事実にも関わらず、極めて当然かつ正当なことだったとされるのである(この点で、トロツキーオーウェルに対する著者の見解は、やや冷淡にも思える)。

 

 

『いうまでもなくより明白な事実は、共産主義者自由主義者のそれぞれがお互いを必要としているということ、また一九三〇年代の諸条件の下では、どれほどショッキングであろうがスターリンのしたことはロシアの問題であった一方で、ヒトラーのしたことは各国の脅威であったということである。(p350)』

 

 

『こうして、マルクス主義者と非マルクス主義者が協力して得たものは、共通の敵に対して団結する実践的必要性どころではなかった。それは、両者がともにフランス革命の伝統すなわち理性や科学、進歩、ヒューマニズム的価値観の伝統に属するという、大恐慌ヒトラーの勝利によって明示されるとともに活性化された深い感覚であった。(p390)』

 

 

 また20世紀末においては、(たんに社会主義国の消滅や、新自由主義の台頭などの理由にとどまらず)やはり文化や社会における「理性」や「啓蒙」という理念の危機・失墜が、マルクス主義の凋落の大きな背景をなしているという見方も示されている。ここには「ポストモダン」的な傾向を、ファシズムの復活につながりかねないものとして警戒する、歴史家ホブズボームの立場も示されているのだろう。

 

 

『したがって、非共産圏におけるマルクス主義からの撤退は、一九七〇年代の社会科学および人文科学における、より一般的な盛衰の一部であった。(p508)』

 

 

『さらに、より一般的な事象を忘れないようにしよう。すなわち、いわゆる一八世紀啓蒙主義的な社会変革のイデオロギーの一般的な後退と、社会的行動主義を一八世紀啓蒙主義とは別に喚起するもの―とくに、暗黙の内に近代化された型の伝統的諸宗教―の興隆あるいは復活である。これらは、ヨーロッパで大人気とはならなかったが、他方で、一九七九年のイラン革命すなわち二〇世紀の最後の大きな社会革命において最初の大成功を収めた。これがそうではなかったとしても、二〇世紀後半の歴史的および知的発展は、明らかに、伝統的にマルクスから引き出された政治的な分析、綱領、予測を侵食した。(p512)』

 

 

 21世紀に入ってからの展望については、最後の第16章に書かれている。ここは、どう読みとるべきか自信がもてないのだが、どうも社会運動の未来に対してホブズボームは懐疑的、あるいは少なくとも見とおせない思いを抱いていたのでないかと思う。というのも、プロレタリアを変革の主役と捉えたマルクス主義の展望は、そのプロレタリアの解体ないしは保守化・反動化によって、すでに瓦解したと見なすしかない。その一方で、世界では階級矛盾が露わとなり、(サービス業種を中心として)階級闘争も現実に行われている。

 だが、上記の意味でマルクス主義がすでに失効した今日、先住民やマイノリティによるものも含めて、そうした諸々の「闘争」が、結局は国家・民族や宗教といったものの吸引力に敗れ、回収されていくのではないかという危惧は大きい。

 この点で、本書のなかで、マルクス主義のもう一つの特色として何度も言及されているのは、その国際主義的な性格だ。宗教もまた国際的なものだから、それと区別する意味で、マルクス主義のそれを「超境界的」ないしは「境界横断的」とでも名づけるべきかもしれない。

 それが真の意味で実現したことは、歴史のなかでごく稀であったとはいえ、そこにはマルクス主義の重要な遺産の一つがあると言えるのかもしれない。つまりそれは、何らかの同一性に収斂しよう(させよう)とする(おそらく根本的には資本主義の)圧力に対して、マルクス主義はしばしば、牽制する働きをしてきたということである。

 上に、マルクス主義は失効したと書いたが、それは人々を吸引する、分かりやすいストーリー(目的論とか権力獲得とか)としての力を失ったということであって、むしろそれによって、マルクスエンゲルスが本来目指していた、真の共産主義の姿に近づいてきたとも考えられるのである。とりわけ、晩年のマルクスエンゲルスが、ナロードニキや原始共同体への関心を深めていたという指摘(第7章)も、その観点から興味深い。

 そういったことを、色々と考えさせてくれる本だった。

 

 

 最後に、これまで書いてきたことにも関連して、非常にホブズボームらしいと思う文章を一つ引用しておきたい。グラムシについての力強い論考のなかのこの一節の、特に最後のところで批判されているのは、執筆当時(冷戦期)の社会主義国のあり方だが、いまこれを読むと、その批判の射程がずっと広く深いことを思わざるをえない。

 

 

『少なくとも先進諸国におけるブルジョワ社会は、ここでは深入りできない歴史的理由により、つねに自らの政治的枠組みと仕組みに主要な注意を払ってきた。それが政治的調整活動がブルジョワヘゲモニーを強化する強力な手段になった理由なのであり、だからこそ、公共性の擁護とか民主主義の防衛あるいは市民的諸権利と自由の保障のようなスローガンが支配者の側に主要な便益をもたらす形で支配者と被支配者をひとつに結びつけるのである。しかしこのことは、そうしたスローガンが被支配者に対して無関係だということを必ずしも意味しない。したがってそうしたスローガンは、強制力の表面にほどこされたたんなる虚飾あるいは単純なごまかしとは異なる何かそれ以上のものなのである。

 社会主義諸社会もまた、包括的な歴史的理由により、他の諸課題に、とりわけ計画経済の課題に集中してきたのであり、(中略)自らの実際の政治的法的諸制度や諸過程にはそれほどの注意を払ってこなかったのである。(中略)そのような場合、何かが明らかにまちがっている。こうした政治の無視によるその他の不都合は問わないとしても、人民大衆が政治過程から排除され、いつのまにか脱政治化し、公共的な問題について無関心になることが、認められさえしてしまうときに、社会主義的な一社会を(所有され運営される経済とは別に)創出することが、どうやって人間生活を変革することが期待できるというのか。(p429~430)』