スターリンの「一国社会主義理論」

スターリン―政治的伝記

スターリン―政治的伝記

年末から体に不調があって、正月休みは遠出をせず、この本を読んでいた。
それで、「第一巻」「第二巻」と分かれている「第一巻」の方を、三が日の間に読み終わった。
ちょっとメモ的に書いておく。


先に書いたように、著者のドイッチャーは「スターリンはなぜ成功したのか」という問いを立てているのだが、本書の前半でスターリンが権力の中枢を握るようになった大きな理由としてあげられているのは、革命後のソ連の政治機構が、動乱のなかで革命を守護するという必要から、次第に独裁色を強め、巨大な官僚的機構にならざるを得なかったという背景である。

革命を救うため、党は独立心と批判精神と勇気を持つ革命家の自由な集まりでなくなってしまった。党の大部分はますます強力になってきた党機構に屈服した。それ以外に解決の道はなかった。この機構を動かすテコを取り扱い、これと最も緊密に結び付いている人、育ちと性格からいって、この新しい官僚的見解を最も身近に受け入れられる人――こうした人々が自動的に新時代の指導者となった。行政官が理論家を押しのけはじめ、官僚主義者と委員型の人が理想主義者を追いやった。このような発展はだれを有利な立場に置いただろうか。とりわけ委員型の人、それも大文字でかかれた委員型の人だったスターリンよりもっと有利な立場にたちえた人が他にいたであろうか。(第一巻 p184)


レーニントロツキーなど、他の革命の指導者たちと比べると、スターリンは際立って個性の乏しい、地味な政治家だったようだ。そのため、周囲の誰からも軽視されるところがあり、それが逆に警戒されないことにつながって、権力闘争では有利に働いたという面もあったという。
ただ彼は、誰よりも実務的な政治家として、党の行政機構をがっちりと掌握していた。革命後の政治状況は、まさにそういう実務型の政治家こそを、しかも強権的で統制的な体制の指導者として、必要としていた。
これが、実務家スターリンが、強大な独裁者となっていった、一つの重大な理由ということのようだ。


このようなスターリン像は、比較的馴染み深いものではないかと思う。
鋼鉄の独裁者は、初めから傑出した存在だったわけではなく、むしろ愚鈍とさえ見られた「凡庸の人」であり、それ故に巨大な官僚機構の掌握者として、権力を握るに至る。
とはいえ、権力の座について以後は、そこに国全体、歴史や経済を、統制によって思いのままに動かせるという、狂気じみた誇大妄想が加わっていくのだが。


ただ、この第一巻の最後のところで、著者のドイッチャーは、スターリンの成功の秘密として、別の面を書いている。
それは、有名なスターリンの「一国社会主義理論」に関わっている。
「一国社会主義理論」は、一応理論上は、最大の政敵だったトロツキーの「永続革命論」への対抗として持ち出されたものだ。
永続革命論は、ロシアと西欧の社会主義革命が、それぞれを補い合うように引き続き起こることによって世界を社会主義化していく、という構想である。そこでは、一応は成立したロシアの革命は、それに触発されて起るべき西欧の革命につながらなければ発展も維持も難しく、またそれらは必ず起こるし、起らねばならないと考えられたのである。
実はこれは、トロツキーだけの考えではなく、レーニンもそういう考えだったし、それはボリシェビキ全体の共通理解のようなものだったと、ドイッチャーは言っている。
スターリンは、これに異を唱えた。ロシア(ソ連)一国だけでも革命は成就できる、というのである(「ロシア革命の自足性」)。
それは、事実認識をめぐる論争というより、革命(社会主義)の国際性をどう考えるかという問題であり、そして同時に「一国社会主義理論」は、「自分たちだけで革命をやり遂げたのだ」というロシアの人たちの自負や、革命直後の激動に疲弊して「安定」を求めようとする人々の心理を意図せずして反映したものでもあったと、著者は述べる。
レーニントロツキー社会主義革命に対する考え方は、西欧あるいはロシア以外の世界(アジアを含む)とのつながりの中でこそ革命は真に成し遂げられる、という発想である。
それは、マルクス主義の本道に則ったものだろうが、安定や民族的自負心に依拠したいという、革命後の人々(ここでは政治家や党員たち)の心理とはそぐわない面があった。
スターリンの理論は、その心理をよく反映したものだったのである。




話がちょっとそれるが、この本の中でドイッチャーは、スターリンの政策や言動が「大ロシア・ショービニズム」的傾向に合致していたことにたびたび注意を促している。スターリン自身はグルジアの人であり、それ故に(と言っていいだろうが)「(少数)民族問題」の第一人者として頭角を現した人だけに、これは興味深いところだ。
たとえば、

スターリンが大雑把に取り上げているロシア史のなかでは、ロシアは常に外国の征服者、圧制者の犠牲として現われている。それまでのボリシェビキの歴史家、評論家は、専らロシア史の暗黒面を暴露し、ツァーリ帝国による弱小民族の征服、弾圧を解明してきた。スターリンは、革命以来若い世代に教えこまれてきた、このような反国家主義的考え方を一撃で片付けたのである。(第二巻 p27)


また、革命直後にスターリンが中央の政治家として、故郷のグルジアを「指導」にやってきて、その民族主義・「郷土的愛国主義」を非難する演説をしてグルジアの人々を傷つけ、ロシアの大国主義への警戒心を持たせたという出来事に関連して、ドイッチャーは、こんな風に書いている。

近代のロシア人が他国民による弾圧から生れるような敏感な民族主義を知らないというのは確かに真実だった。ロシア人の民族主義は弾圧者としての民族主義であり、鈍感、野蛮で、よりはるかに危険なものであった。レーニンは彼の追随者にロシア民族主義の危険を警告し、それまで弾圧されていた諸民族の誇大視された要求に対してさえ、忍耐強く、寛容にふるまうよう力説した。帝政ロシア支配下の思い出は極めて徐々にしか拭いとられないからであった。(第一巻 p195)


レーニンや初期のボリシェビキには、民族主義に対するこのような繊細で国際主義的とも呼べる理解があったが、スターリン少数民族の出身であったけれども、どこかこうした感覚に欠けるところがあった。
そういうことになろうかと思う。



さて、話を戻すと、スターリンの「一国社会主義理論」が、上記のように、人々の無意識的な心理をよく反映していたということが、結局、トロツキーとの論争において支持を集めた決め手になった。
そして、この理論によってスターリンは、一政治家ではなく、「新しいドグマの創始者」として、その権威を確立していくことになる。

大まかにいうと、主義というものは二つの範疇に分類される。一つは一連の知的構想から出発して、未知の遠い将来に敢然として新機軸を打ち出すものであり、あと一つは思想的に深い根をはっているのでもなく、独創的予見をたてるのでもないが、それまではっきりした形をとっていなかった有力な見解または感情の流れを要約するものである。スターリン理論は明らかに後者の範疇に属していた。(第一巻 p233)

スターリンの注目すべき特徴は党内と党周辺のあらゆる心理的底流、無言の希望、暗黙裡の要求に独自の敏感さを持っているということで、彼はその代弁者として現われた。(中略)
彼は彼のどの主張が党役員、労働者の大衆――これは彼の神の声を伝える、人間でできた大きな反響板だ――から最も強い反応を呼び起こすかを感じとった。この反響板は意外なほど?一国社会主義理論?に反応を示した。神の啓示を求める人によくあるように、彼の心が生んだ一国社会主義の幻影は彼をとりこにした。だが、彼がそうなったのは、他の多くの人々の心に潜んでいるものにこの幻影が応じたからであった。(同上 p234)


スターリンには、周囲の人々や大衆の気分のようなものを捉える天才的な能力があったようだが、その人々の気分や無意識という「反響板」の共鳴が、彼を自らの作り出した(だが本当は共同的な)幻影のとりこにしていった。
このようにして、「一国だけでやっていける」という幻想にとりつかれた、狂気じみた全体主義と「成長主義」の政治が始まった。
「独裁者」スターリンの政治は、自負と安定に安らい続けたいという人々の願望の、巨大すぎる産物でもあったのである。