『スターリン』

スターリン―政治的伝記

スターリン―政治的伝記


現実逃避したいからでも、秘密保護法が怖いからでもないのだが(逃避したいことも怖いことも否定はしないが)、今年の特に後半は本の紹介や感想ばかり書いている。
今年の最後も、やはり本の話題だ。
いま読んでるのは、アイザック・ドイッチャーの評伝『スターリン』。
相当なボリュームの本だが、文章が粗雑になるどころか、きわめて精緻な構成で、しかも驚くほど面白い。大変な筆力だ。
彼の代表作であるトロツキー三部作は、この三倍ぐらいあるということだろう。そちらの方は、機会があったら読むかな。


第二次大戦直後に書かれたこの本の、第二版(1966年)に付された1961年執筆の序論のなかで、ドイッチャーは、こう書いている。

私はスターリンの手で無残に打ち敗られた人々の一人であった。私が自分に課した一つの問題はなぜスターリンが成功したかということであった。


実は、まだ全体の五分の一ぐらいしか読んでないので、はっきり分からないが、ドイッチャーのスターリンに対する大まかな見方の一端は、すでに示されてる気がする。
それは、こういうものだ。
当時のマルクス主義の指導者や主要な政治家・活動家たちのなかでは例外的に、農奴出身である貧農の家の子、それもグルジアという帝国周縁部の少数民族の貧農の子であり、また海外での亡命経験もなかったスターリンには、トロツキーレーニン(いずれも知識人層の出身)が持っていたような、国際的な視野のようなものは欠落していた。
その代り、ロシアの貧しい農民たちが何を考えているか、あるいは少数民族の人たちがどのような苦しみや憤懣を抱いているかについての認識が、他の誰と比べても秀でていた。


ここから、ひとつには、トロツキーに象徴されるような西洋風、インテリ的な指導者に対する敵対心や批判が生まれたのだろうが、同時にそれは、貧農層の感情に合致するものでもあった、ということらしい。
前に紹介した、『ファシズムの中の一九三〇年代』という本のなかで、久野収が、ナチズムだけでなくスターリニズムも、インテリを憎む大衆、特に農民の心情に支えられていたのではないかということを言っていて、面食らったものだが、ドイッチャーが書いてることを読んで、確かにそういう面があったのかもしれない、と思った。
これは、今の日本の状況と似ているとか似ていないとかいうことを言いたいのではなくて、歴史のなかには、そういうケースがある、ということだ。
こうした変数を読み解いていくことは、読む者各々の領分だろう。


他にも色々と興味深い記述があるのだが、今回はこれだけで。