『神社の起源と古代朝鮮』


店先で平積みされてるのを見て何となく買ったのだが、思った以上に刺激的な内容だった。
著者は、最も日本的なものみたいに思われている神社というものの起源が、実は古代の朝鮮半島との関わりのなかにあると考え、その原像を求めて、日本各地から韓国までを歩く。
そこから浮かび上がるのは、古代の姿ばかりでなく、現在のこの国の「実像」であるようにも思われる。


第一、二、三章では、現在の福井県敦賀から滋賀県北部にかけて、古代朝鮮、特に新羅の人々と文化が大きな影響を与えながら移動した痕跡が残っていることが語られている。その時代、この地域は畿内以上の文化的・技術的先進地域だったというのである。
それは、新羅伽耶の名残を残した神社の名や、地域の風習などから、そして古墳からの出土品によっても推定される。
著者は、この地域に朝鮮から人々が渡来した理由として、鉄の鉱脈の存在をあげている。これは、他の章にも共通する著者の視点である。古代の人々は、鉄鉱石を求めて、また鉄を作るための木材を求めて、朝鮮から渡来し、日本列島を移動し、その鉄から多くの道具や品物を作った。そして、その中でも重要なものは、やはり武器であった。
鉄(資源)と武器。これが、日本列島(と朝鮮半島)の古代史を解くキーワードとなる。
現地を丹念に調べ歩く(これが本書の大きな魅力である)著者の文章を読んでいると、敦賀が、高速増殖炉もんじゅを含めて、多くの原発が立ち並ぶ「原発銀座」とも呼ばれる地域であり、また「朝鮮半島からの脅威」を理由にして、滋賀県北部ではオスプレイの導入が進められつつあるという、現在の状況が、その古代の姿と重なって見えてくるようだ。
つまり、今もなお、この地域には、資源とエネルギー、そして武器と軍事という、人々の生活を規定し拘束する現実が、集中的に存在し露呈している。
見出された古代の姿がわれわれに示唆するのは、こうした「現実」のあからさまな在り様だと言えるだろう。


それにしても、この「敦賀・近江」というルートにおける朝鮮半島からの影響が、これまであまり語られてこなかったのは何故か。
著者は、『日本書紀』を編集した人たちが抱いていた、「新羅敵視観」をその理由に挙げている。
敦賀・近江に渡来したのは新羅(や伽耶)の人たちだったのだが、白村江の戦いに敗れて、大挙渡来してきた百済の人々が編集に参画した『日本書紀』の記述では、百済との関係よりも古い歴史を持つ、新羅伽耶と倭(日本)との関係は消去された。そのことが、「敦賀・近江」の古代史における重要性を見えにくくしてきたのだ、というのである。
これは、権力関係による、歴史の委曲ということだ。
日本史において新羅が敵視・「蕃国」視されてきた理由のすべてを「百済」に帰するのは無理であろうが、いずれにせよその時々の政治的・軍事的「現実」が、描かれる歴史の像を決めてきた。
その書き換えていく力こそ、紛れもない現実だ。われわれは、その力からは逃れることが出来ない。この「権力」を直視し、権力が構成する神話(イデオロギー、歴史の委曲)を解体していくことこそ、われわれが現在を生きるということだろう。


さて、本書の第四、五章では、出雲と大和(三輪)を舞台に、やはり神社と古代朝鮮との関係が探求される。
ここでも、鉄をめぐる人々の移動の歴史が思い描かれており、それは、現代思想が好きな人には、『千のプラトー』のあのインドを発祥の地とする鉄を採る民族の壮大な移動の物語を思い出させるだろう。

大和朝廷の支配がまだ確立していなかった時代、このような穴師、犬と呼ばれた人々が鉄を求め、群をなして出雲から東国にかけての各地を巡り歩いていたようだ。その中には朝鮮半島南東部、新羅伽耶の地域から出雲を経ずに、若狭や敦賀へ直接渡ってきた人々もいたであろう。この地域は、第一章で『魏志東夷伝』の一節を引いて若干説いたように鉄の先進地域であり、新羅がのちに大をなしたのは鉄のためだったのであり、当時にあって金に比すべき鉱物であった鉄を求めて、まだその点では全く未開発の倭という新天地に人々が入ってくるのは自然のことだったからである。(p171)


また、新羅のみならず、朝鮮半島との関わりがほとんど無いかのように思われている出雲に関して、著者はやはり(土地の)政治的事情による歴史の委曲、つまり濃厚な新羅朝鮮半島の影響の痕跡の意図的削除を推定しているのである。
関係が深いからこそ、「近い」からこそ、遠ざけられ排除され隠蔽される。人間同士の関係には、たしかにそういう力学が働く場合がある。


最後の六、七章では、神社の「起源」を探る著者の旅は、九州の宇佐八幡から、ついに韓国へと到る。
宇佐八幡は、神社信仰のなかでも最大の勢力を持つ八幡信仰の総社であるが、それはやはり朝鮮半島から渡来した人々と不可分の存在であることが明らかにされていく。
ここで興味深いのは、仏教との関係である。この地域には、仏教公伝以前から既に仏教が入りこんでいたと考えられる。それは、新羅の仏教であり、弥勒信仰とも関わりを持つ。
仏教と深い関わりを持ってきた宇佐八幡は日本における神仏習合のさきがけと呼べる存在であり、神仏習合の先例は、実は新羅に見られるのだという。
八幡信仰が、軍事(隼人や蝦夷への侵略・支配など)や政治権力との関わりにおいてその勢力を拡大してきたことは、よく知られているが、そこには、朝鮮から渡来した人々の持つ先進的な技術や宗教性が深く関わっていたことが、本書の記述から分かってくる。中央権力(大和朝廷)は、神仏習合という特徴を持つ八幡信仰の受容を通して、その先進的な力を我が物にしようとしてきたのである。
こうしてみると、神仏習合は、宗教的対立を緩和する優れた知恵である(それは、多くの示唆を現代の私たちに与えてくれることも確かだが)と同時に、中央の政治権力が周縁に到来した先進的な技術や呪力を取り入れ、支配を強化するための、一つの形式という一面を持つものだったのではないだろうか。


神社信仰本来のあり方を、建物(人工物)を域内に作らず、山や樹や森といった自然物そのものを崇めることであるとする著者は、大和の三輪神社や、沖縄の御嶽に、その原初的な像を見出し、さらに古来の信仰の形態が比較的よく残されている済州島などの島嶼部から、日本の神社信仰と最も関わりが深いと思われる、かつての新羅、韓国慶州へと足を延ばす。
長く続いた儒教による支配体制や、戦後のセマウル運動などによって、すっかり痕跡が失われてしまったかのように思われたその地にも、森や樹を信仰の対象とする、神社信仰の原初的なあり方と思われるものが、今も残されていることが発見される。
神域に建物のような人工物を作れば神の怒りにふれるという、神社信仰の根幹をなす畏怖は、新羅系の渡来人によって日本に伝えられたのではないか、と著者は考えるのである。


本書の書名には「神社の起源」とあるが、僕が本書から受け取ったものは、むしろ何らかの「起源」が存在するという発想自体の神話性が解体される爽快さだ。
この本に描かれているのは、朝鮮半島からやってきて、日本各地に移り住んでいった人々の移動の姿であり、その人たちと関わりながら支配を達成しようとしてきた者たちの権力の争いの影、そして、それらの痕跡を追うかのように、神社の「起源」を求めて各地を旅し続ける著者の移動の記録である。
人々の移動と、生活と、生の抗いや争いや出会いや混淆だけが実在しており、権力は、「起源」なるものを捏造することで、その生々しい現実の姿を、人々の目から隠し、都合のよい枠にはめて分離し、統治を遂行しようとする。
人工物を忌避するという神社信仰の「起源」のあり方は、日本とか朝鮮半島とかいう、どこかにではなく、どこにでも、本当はいつも目の前にある、この移動と混淆から成り立つ我々の生の実像を示すものなのではないかと思う。