脱原発運動と「国民」の責任

原発運動、効果を考えたらいかが? =無駄な騒擾やデモを止め、民主的手続きへの参加を - 石井 孝明
http://news.livedoor.com/article/detail/5932929/

ここまではっきりした「デモ嫌悪」「運動嫌悪」「左翼嫌悪」の意見ではないまでも、こ
れに近い雰囲気は、脱原発運動に参加したり共感されてる方々のなかにも少なからずあるのではないかと思う。
それだけに、ここではぼくの立場から、思うところを書いておかないわけにはいかない。


まず、言っておきたいことは、こうである。
たしかに、原発という存在をもたらし、また存続を可能にしてきた差別的な社会の構造を変えるということを抜きにして、形だけの「脱原発」(実際には、原発も核廃棄物も、また放射能汚染が実態を隠蔽されながら定着し広がり続ける状況も、改善されはしないと思うが)ということなら、確かにデモや抗議の社会運動を起こさずとも、政治家や行政・産業界主導の「世論形成」とやらによって可能かもしれない。
だが、そういう社会全体の差別的な構造が手を付けられずに残るということは、特定の者たち(たとえ「99%」の多数者であろうと)の利益のために、誰かが犠牲になり、危険や不利益や差別・偏見を被りつづける社会が存続するということである。
そうした社会では、また風向きが変われば、いつでも「全体の利益のため」に、原発推進に舵が切られることもありうるだろう。
そうならなくとも、なんらかの犠牲者が、不当に出続け、またそれが正当化されて隠蔽され続けることは明白である。


だから「脱原発」の運動は、そうした社会の在り方を問うて、それを変えていくことを本質として目指す以外にない。
そしてそのためには、これまでの日本の(この筆者が言うところの)「賢明かつ冷静な日本」の民主主義(それは「父祖」の努力によってのみもたらされたものだそうだ)の歴史が示している通り、議会政治の枠組みだけでは到底不充分である。
われわれの国の民主主義は、残念ながら、まだ「多数者のための政治」から縁を切ったこと、そのためのまともな努力をしたことさえ、ただの一度もないからだ。
この国の民主主義は、いまも差別の汚れた揺り篭のなかで眠ったままだ。


上の記事では、いわゆる運動的な方法によらずに、原発の誘致を拒むことに成功した自治体の例が示されている。
だが、言うまでもないことだが、原発を押し付けられる、いやもっと「柔らかい」言い方をすれば誘致を受け入れることを余儀なくされる各自治体の政策決定と、原発を作ったり押し付けたりする国家の政策決定とが、同列に語れるはずはない。
一言でいえば、国家のそれは、加害的な立場に立つものである。それは、国家と、憲法上その主権者である国民一般の名において、負担を強いられるものに対して行使される暴力(権力)の問題なのだ。
有権者であるわれわれには、不充分な日本の議会政治や行政、その枠内にとどまる世論形成の大勢に抗して、デモなどの直接行動によってでも、少数者への不当な政治的暴力の行使を阻止する義務がある。
脱原発運動は、そのような種類の政治闘争であるべきなのだ。




ぼくは、最近話題にされている「国民」を掲げた運動のあり方を、はなから否定するものではない。
その理由は、憲法国民主権を定め、また実際日本国籍を有さなければ選挙権が認められないという規定をもっている以上、日本という国家が他者や少数者(国籍の如何に関わらず、国家の政治的暴力にさらされる者は、国家と国民にとっての他者だろう)に対して振るう(振るった)暴力についての責任は、国家のみならず国民一般(われわれ一人一人が、ということだが)が負っているはずだと思うからである。
「国民」という概念は、他者に対する国家の暴力についての責任を誰が負うかということ、それは(国家や企業のみならず)「国民」として法的に規定されているわれわれもまた負うのである、という事実を明確にするものとしてのみ、意味をもつ。
無論、たとえばデモなどの行動、運動の場においては、「国民」であるかという区別は、(日本国籍を持たない人の方がはるかにリスクが大きい、ということを別にすれば)意味を持たないだろう。
だが、すでに日本という国家が現実に存在しており、その法的なあり方が、国民とされる者にだけ参政権を与えるという規定を現実に有してきた以上(この歴史と現状自体は批判されるべきだが)、国家が行った政治的暴力(権力)の行使についての責任を、私自身は持つということを、他者に対しては言うべきであると思う。
その自らの有責性を、人々に自覚させるという意味でのみ、「国民」という言葉は使われていいと思うのである*1


居住者であり納税者であり市民であるばかりではなく、そのうえ有責者としての「国民」でもあるわれわれは(ぼくは)、そうした者として、(やはり上の記事の語を引用して言うなら)原発事故の被害を受けた「同胞」への責任と、「同胞以外の全ての人々」への責任とを、まったく等しく有している。
その自覚の上に立って、この事故についての国家と東電の責任を明確にし、同時にこの差別的な社会の構造をただして、原発を持つことのない社会を実現していくために、あらゆる可能な方法で行動を続けるべきなのだ。

*1:最近発表された「デモと広場のための共同声明」とかいうものの文言が、同じ論理に基づいているのかどうかは、どうでもよい。