映画『日本国憲法』をみて

『マガジン9条』のなかでも紹介されている『日本国憲法』という映画を、最近みる機会があったので、そのときに考えたことを書いてみます。


この映画は、前半がダグラス・ラミスとか、ベアテ・シロタ・ゴードンとか、日高六郎(鶴田浩二に似てる)とか、おもに日本に長く住んでいたり、憲法が出来た頃の日本の事情をよく知っている人たちの回想や考えを聞く、という内容になっている。ジョン・ダワーも、そこに出てくる。
ぼくは、これは「内側」から日本国憲法の価値と意義を描こうとしているのだと思った。なぜ日本の一般の市民が出てこないで、ほとんど外国人なのか、という気もするが、これはあえてそうしてるのかもしれない。憲法は日本国民だけのものではない、という意味かも。ただ、「知識人」の声しか聞けないというのは、やはりちょっとひっかかる。
そこで語られていることの内容については、後でふれる。


前半を見て思ったことのひとつは、「憲法のある条文(この場合は9条)は、それが存在していること自体に意味がある」ということだ。
宮台真司などがよく言うように、立憲主義の考え方では、憲法は国民が国家に縛りをかけるためのものである、ということになっている。たしかに、そうなんだろうけれども、現実には憲法があっても、国家はそれをすりぬけて好きなことをやってしまう。
たとえば、9条というものがあっても、現実に自衛隊という強大な軍隊が存在し、米軍に全面的に協力する日本というものがあり、イラク自衛隊は派兵されたわけだ。
そうすると、9条なんてあったってなくたって一緒じゃないか、と思うけれども、大事なことは、そういう憲法の条文があったら、現実の政策がその条文に合っていないと思ったときに、それに文句を言う根拠になる、ということ。
改憲がおこなわれて9条がなくなるということは、その文句をいう法的な根拠がなくなるということで、これは非常にまずい。今後、文句を言わないといけない、政府の政策に反対しないといけない機会が増えてくるだろうだけに、余計そうだと思った。
別にそういう根拠がなくても、間違ってると思ったら反対すればいいじゃないか、と思うかもしれないが、反対して歯止めをかけるための有効な武器が今あるのに、それをみすみす手放すというのは、やはりよくない。


ただ、そういうことの大事さというのは、なかなか分かりにくい。ぼくも、じつはこのことにははじめて気がついた。どうして分かりにくいんだろう?たぶん、法とか言葉というものを、そういうふうに考える習慣がないからじゃないか。
ともかく、それがひとつある。


映画の後半は、一転して憲法9条というものを、「外側」からの視点でとらえている。戦争で日本により被害を受けた韓国や中国の人、自衛隊がいま行っているイラクなど中東の人、それからチョムスキーチャルマーズ・ジョンソンといったアメリカの学者などが、インタビューに答えて意見を述べる。
ここで分かるのは、9条が持つ「謝罪」としての意味である。これは、いろんな人が共通して言っている点だ。つまり9条をなくしてしまうということは、侵略戦争に対するアジアへの謝罪を撤回したことになる、ということである。


これは、日本国内ではいちばん反発されることの多い言い方である。
たとえば、アジアには謝罪するとしても、なぜあの戦争でアメリカにまで謝罪しなくてはいけないのか、とか。
もっと根本的に、別にアジアに対しても悪いことはしていないとか、あの戦争は正当防衛だった、という言い方もある。
ひとつ言えることは、これらは「謝罪」という行為を主観的にとらえた上での反発であるとおもう。
だが謝罪するということは、たんに主観的な行為ではない。言い換えると、過去の行為をどう自分が反省しているか、という意識につきる問題ではない。それは、客観的な行為、つまり現在の他者との関係性のなかで、自分の位置と意志を明確に示す行為だ。つまり、いま自分はどういう存在であるのかを周囲の他者に示し、そのことで秩序というか、良好な関係の維持を作る一翼を担う行動である。
9条には、そういう現在にかかわる意味があり、それをなくすということは、これから関係をよくしていくための共同作業を日本が放棄したことと受取られてしまう。そのことを、あの一連のインタビューのなかで多くの人が言っていたのだと思う。


だがこれも、本当に伝わりにくい。
自分の存在を客観的にみる、ということがすごく難しい社会だからだとおもう。自分の態度や言動が、他者にとってどういう意味をもつか、ということが意識されにくいような社会になっている。
これは、ぼく自身のことを考えて、そう思うわけだが。


ところで、この映画の前半では、日本国憲法が「押し付けられた」ものではなく、敗戦時にそれ以上に平和的で民主的な草案が日本の人たち自身の手で作られていたということ、それからたとえ最初は「押し付け」であったとしても、実際に60年も日本国民自身がこの憲法を変えずにきたという事実があるではないか、という指摘がされていた。
どちらも大事な指摘であると思う。


これはぼくには、一定の説得力があったのだが、それはこれらの指摘が「自己自身」をどう見出すか(再発見するか)というテーマに関わっているからだと思う。
それは、「国民」としてとか、政治的・社会的同一性以前のところで、もっと抽象的な「自己」という枠が失われていて、それを取り戻すという行為にリアリティーがある時代になっている、ということを意味するのだろう。
憲法は「押し付け」だからよくないとみんなが考え、自前の憲法を持って自立した自分自身(国民)になるべきだという主張が共鳴されるのも、「自己」を取り戻すというテーマに多くの人がリアリティーを感じてるからではないか。


いま、国や社会が「自立すること」というテーゼを、狭い意味に限定して押し付けているということはあるが、人々がそれにリアリティーをもつこと自体には切実なものがあって、この映画のいい点も、そのリアリティーに訴えかける部分があるところではないか、と思う。
だが大事なことは、そこに映画の後半で示された、他者への「謝罪」という客観的な視点を自分のなかに組入れる(つまり、自分を社会化する)ことの重要性を接続させる、ということだろう。
「自己の再発見」「再び自己になること」は、自分自身に対する客観的なまなざしを基礎とする行為でなければならない。他者を排除した「自立」は、じつは従属の別名でしかないのだ。


憲法から少し離れてしまったが、そういうことを感じた映画だった。
ところで9条については、平和運動をしている人のなかでも、さまざまな意見があるようだ。
ぼくはこの映画をみて、やはりこの条文は変えさせないことを目標に頑固に抵抗した方がいいようだ、と思うようになった。
それは、そういう抵抗をすること自体に意味のある条文だということである。
いま書けるのは、そこまでです。