憲法についての基本的なことのメモ

きのうのエントリーを読んで、戦後の日本が「暴力的な社会」「暴力的な国家」だというなら、平和憲法はどうなるのだ、それは何の意味も持たなかったことになるではないか、と思う人がいるかもしれない。
しかし、そうではない。
戦後の日本の憲法は、元来、国家がもつこの暴力性への歯止めとして存在するものなのだが、その目的が十分に果たされず、誤った用いられ方をしてきた、とみるべきだと思う。つまりそれは、その本来の機能を十分に展開しないままに、悪い用いられ方をしてきたのであって、必要なのは、この「用法」の方をあらためる、ということである。


国家は、ある人を、他人や他の勢力、場合によっては他の国による暴力から守るという機能を果たす。だが、その方法は、暴力の合法的な独占ということであるため、国家自体が巨大な暴力となって、個々の人に襲いかかるという事態も生じうる。
憲法においては、こうした事態に際して、個々の人を国家による合法的な暴力から守るということが、重要な問題となる。
たとえば、日本国憲法第25条で、生存権の保障ということが言われる場合、これはたんに、国家の力によって人が生存する権利を保障しよう、と言っているだけではない。
同時に、国家の力が暴走した場合、この国家の力から個人の生存を守る、ということを保障しようとするものでもあるのだ。
国家がそのような暴走を起こさないことが望ましいのだが、国家という装置のそれ自体は重要な機能が「暴力の独占」という性質を持つ以上、それはなんらかの歯止めがなければ起きるものだと考えるしかない。
だから、憲法という仕組みによって、そこに歯止めをかけようとする。
第二次大戦に至る軍部の暴走などを経験した多くの日本人にとって、これはたんに理論上の問題でなく、切実な要請であったろうと思う。


平和憲法」とも呼ばれる日本国憲法に、伝承されるべき選択の物語があるとすれば、それはやはりそのリアリティにしかないと思う。
これは、憲法の草案を誰が書いたか、というふうな問題ではない。この憲法が、それを引き受けたものにとって何を意味したか、また意味しているか、ということである。


現実には、この憲法は政治の論理のなかで形骸化され、日本の支配的な体制の維持や、日米の軍事同盟や、国民主義的な平和運動のナルシズムや、それぞれの集団のイデオロギーの保持や、そういったものを守るための道具のように用いられてきた。
日本の社会の、自己中心的、差別的、暴力的な体質は、戦前からほとんど変わっていないだろう。
だがそれは、憲法を形骸化させ「道具」にして恥じないような「現実」に問題があるのであって、「憲法」の方に問題があるのではない。
むしろ、そのように依然としてこの国では、国家や社会の力が、国の内外の人たちの生命や生活を脅かすことが常態化しているという現実があるのだから、それから人々を守ろうとするものとしての日本国憲法の重要性が、ここに証明されていると思うのである。