『戦後日本の思想』

戦後日本の思想 (岩波現代文庫)

戦後日本の思想 (岩波現代文庫)

鶴見  日本の戦後は、第一次大戦後のドイツに非常に似ているんじゃないか。大江精三がはじめから、そういっていた。彼はワイマール共和国の研究をしよう、と盛んにいってたし、書きもした。彼は大体ノイラートの立場ですから。戦闘的な第二インターナショナルだな。この説をだれも聞く人がなかった。


藤田  石原慎太郎の『太陽の季節』において現われた行動主義みたいなものが、第一次世界大戦後では、ファッショに行く道筋だったわけでしょうが、これを反ファッショの方向に再組織する道筋がつくられる必要があると私は思います。(p220)


先日、アメリカに移住することになった友人が、長年住んだ家を引き払うというので訪ねて行ったところ、不要になった古い本がたくさんあるので気に入ったものを持って帰ってくれと言われた。
それで、1959年に出版された『戦後日本の思想』の、これは1966年に出た第二版なのだが、内容はまったく知らなかったが、面白そうだったので貰って帰った。後で本屋に行って見ると、2010年に岩波現代文庫からも出てることが分った。
名著として評価の定まってる本なのだろう。
たしかに、すこぶる面白い。
しかし全体を紹介するのは大変なので、一箇所特に興味深かったところについて、メモしておく(引用文のページ付けは、66年出版の 勁草書房版第二版のもの)。


久野収鶴見俊輔藤田省三の三人による報告と討論を収めたこの書物には、僕の関心に沿って整理すると、次のような大筋がある。
この三人は共通して、日本の思想・運動にとってマルクス主義が及ぼした影響の、ほとんど無比の意義を強調する。それは、たんに現実の矛盾したありさまを指摘したり分析するだけでなく、そうした矛盾が生み出される現実の仕組み(「全歴史過程」)を説明し、それによってその現実の仕組みそのものの改変(革命)を目指そうとする。その志は、他のどのような思想と比べても高く、とりわけ天皇制や共同体の論理(政府の馬鹿げた政策への批判や反対を貫くより、波風や対立を避けて「一家総心中」を選ぶような心性)に束縛された日本の社会に与えた衝撃の、ポジティブな意義は大きかったということが、何度も確認される。
だが、戦後(この本が出た1959年ごろまで)の情勢を見ると、日本のマルクス主義運動は、すでに「堕落」していた。

ここで堕落というのは、思想の持主が、自分の「立場」や「考え」を、根本から懐疑のルツボにたたき込んで、絶えず自分の考えを自分で破壊しては再形成する過程の重要さを忘れて、自己の立場を実体化することを指しています。自分の考えと他人の考えを公然と区別しない傾向を持っている日本の精神風土には、思想の堕落が起り得ない。始めから堕落しているから堕落しようがない。マルクス主義は、それとは違う。堕落を問題に出来るんです。(藤田省三 p36)


これは、その後「教条主義化」というふうにも呼ばれた形態だろうが、では、そのようになってしまった原因は何か?
そこにはもちろん、マルクス主義一般の問題性ということもあるであろう。1959年といえば、すでにハンガリー動乱を受けたスターリン批判も公然化し、マルクス主義の神話のようなものが信奉者の間でも大きく崩れ始めた時機だろう。
だがこの本が面白いのは、この「堕落」の原因を、あくまで「戦後日本」の特殊事情の中に探るという試みが為されているところだ。
その原因は一口に言うと、戦前・戦中の弾圧や転向の時代を経験してきた、日本の個々のマルクス主義者たちが、そうした自分の体験の「内発的な掘り起し」を行わず、マルクス主義や政党の無謬性といった一般的な正当性(正義)を強調することに話をすり替えてしまったところにある、とされる。
そうした意味での「戦争体験」(戦前・戦中の体験)の反省を含む、マルクス主義者たちの思想的な人生の考察が、「意識の経験の学」として為されなかったことが、戦後日本のマルクス主義を、内実を欠いた教条主義的なもの、言い換えれば、(個々の意識の体験や責任と同様に不問とされた)天皇制の枠内にあるものにしてしまった。
日本のマルクス主義(反体制運動)の当時の状況については、著者たちは概ねそのような見方をしている。


そして、このことを中心にしてみると、本書の他の章は、日本の「運動」をこの「堕落」状況からどのように救い、人びとの解放を実現していくかという可能性を探ったものとして見ることが出来ると思う。
それは例えば、教義(ドグマ)体系として重要な役割を果たしてきたマルクス主義を、対立しながら補完するべき「学問思想の自由」への意志に基づく重要な仕事、とりわけ丸山真男大塚久雄に代表される社会科学者たちの理論的・「仮説的」な作業の、批判を交えた検討だ。

日本では、普遍教会のかわりにマルクス主義がドグマ作りの運動をやったのだから、それへの対抗から、大塚、丸山的方向が、思想運動のレベルで生かされ得る可能性を持っている。にもかかわらず、そういうふうな運動になっていないところに問題があるわけです。(藤田 p155)


余談だが、ここでは「ドグマ作り」という肯定的な意義と、「堕落」や「教条主義化」とが、別個の事柄として位置づけられていることが分るかと思う。
また一方では、戦前から続く「生活綴り方」の実践や、戦時中の庶民や兵士の手記を通して、大衆に根ざし、大衆の社会を内側から変えていくような運動、働きかけの道が模索される。
冒頭に引いたやりとりは、民衆の戦争体験を検証した、本書の最終部に書かれているものである。
そこでは、従来のアカデミックな、あるいはマルクス主義的な歴史記述によっては捉えられることのなかった、人々の体験の相というものが論題にのぼる。

久野  (前略)それから、鶴見君が問題を提起したファシスト的体験において、最も強く表現されているのは、やはり、共同体的歴史の意識だと思う。共同体の一人としての個人の意識です。この立場だけでは、皇国史観になって、マイナスになる。しかし歴史を作る立場としては、共同体的体験を本当に処理しなければ、やはり、新しい歴史を作るエネルギーが、重大なところでかけてしまうのではないですかね。ファシスト的経験の中で、担われている共同体意識、その最良の部分――お前も倒れれば、おれも倒れる――そういう意識、行動様式をエネルギーとして汲みあげる方法は、今までの歴史記述の中にはないですね。(p206)


ここで「ファシスト的体験」という言葉が出てくるのだが、説明しておくと、ファシストファシズムという言葉は恐ろしく多義的だが、この本では本来の(?)農本主義的という意味で「ファシズム」という言葉が使われているようである。
冒頭に引用した文に結び付けて解釈すると、著者たちは、こうした体験に孕まれている肯定的な意義を重視し、そうしたものは戦後の日本の大衆の中にも根強く残存している(むしろ、いまだ支配的である)と考え、そこに働きかけてそれを「反ファッショ」的な方向に変えて行くことが肝要だと、考えていることになろう。


このくだりではさらに、「純正ファシズム(ファシスト)」という言葉も登場する。これは、ファシズム(農本主義的精神)体験の中のもっとも肯定的な部分を指す言葉のようである。
そこではその心理が、敗戦による挫折と50年代の共産党非合法時代における挫折体験を「二重に」体験した、吉本隆明のような人(彼もナショナリズムファシズムには留保的な態度をとったと思うが)をも引き合いに出しながら語られている。
そして、三人の著者たちには、この点に関してかなりはっきりしたスタンスの違いがあり、弾圧の時代をまともに経験した久野は、「純正ファシズム」の価値そのものについては、さすがに懐疑的であり、鶴見は中立的・理論的にその可能性を考えているという感じなのだが、印象的なのは、藤田省三が、この「純正ファシズム」なるものについて、極めて共感的に捉えていることだ。
この本全体を通して、藤田の発言の激しさのようなものは、際立っている。僕はこの人の著作は、大分前に『精神史的考察』を読んだぐらいだと思うのだが、その時にはそんな感じを受けなかったが、この『戦後日本の思想』における藤田は、まだ年齢が若いというせいもあるのか、大変気性の激しい人という感じだ。
日本の保守主義者(オールド・リベラリストたち)を論じた章の中で、「彼らには破壊の価値が理解できず、病的なものも、憎悪も、ファナティックなものも全て理解できない」というようなことを舌鋒鋭く語っている箇所があるのだが、そこには藤田自身の激しい憤りや苛立ちが込められているかのようだ。


この本での藤田の発言傾向を見ると、ひとつには、これはトロツキズムに近いのではないかと思わせるところがある(59年当時は、彼はまだ共産党員だったはずだが)。その意味で、やはり永久革命論を標榜していた埴谷雄高への非常に高い評価(これは鶴見にも共通するが)や、椎名麟三への賞賛などは、うなづけるところがある。
それは、破壊への情熱のようなものであり、その別の表現として、福沢諭吉伊藤博文に代表される明治初期の激動期の精神への傾倒が語られたりもする。これは後年の「維新の精神」をめぐる仕事につながっていくものであろう。
そしてもう一つ印象深いのが、ここでの「純正ファシズム」への思い入れであり、そこでは、この破壊への情熱と、歴史上のファシズムが実際にその出生地とした、外的な脅威(自由主義経済による侵食)を感じる農本主義者たちの心情への想像(共感)とが、危ういところで重なっているようにも思えるのだ。
実際、やはり冒頭に引いた発言の中に出てくる石原慎太郎の『太陽の季節』に関して、それをファッショへの道につながるものだとはっきり認識していながら、藤田は、これを当時の「戦後派」(大江健三郎加藤秀俊など)の仕事とは明確に区別して、ほとんど唯一価値を認めうる作品だと述べているのである。


冒頭にあのくだりを引用したのは、この藤田省三ファシズム(農本主義)をめぐることを書きたかったのと、もうひとつは、戦後日本とワイマール共和国との類似という、比較的最近広く聞かれるようになった認識が、すでに敗戦直後から主張されていたものだったということへの驚きを、書いておきたかったからでもある。
僕は、この著者たちが論じている「働きかけ」の方向や仕方の是非については、ここでは触れないでおくが、ただ、やはり自らの戦争体験を明確に反省(意識化)し、改革し得なかったこの社会は、「戦後」長い歳月を経ても、本質的には何も変わっていないということだけは、あらためて実感する。