最悪のこと

リビア情勢に関して、「軍隊が自国の国民を殺害するなんて最悪だ」ということを言う人が居る。


しかし、「自国の国民を」は余計だろう。自国民であっても、自国民以外でも、殺害・虐殺は常に最悪だ。
軍隊が自国民を殺すことよりも、自国民以外(他国の市民でも、他の国籍を持つ自国の市民でも)を殺すことの方が「最悪さ」が軽い、なんてことは絶対にない。
カダフィの軍隊」が自国の民衆を殺すことも、「ブッシュやオバマの軍隊」が他国の民衆を殺すことも、まったく同じに「酷い」のである。


こんなことは当たり前のことだ。
でも、これが当たり前のことだとは教えられず、思っていてもそのように発言しにくい社会というものがある。それは、徴兵制を敷いているなど、国民と軍隊が一体化し、「われらの軍隊」という意識によって国が成立しているような社会である。
たとえば日本の隣国の韓国がそうであり、この国では光州事件以来、きまって述べられる運動側による非難のフレーズは「国軍が自国の民衆に銃を向けるのか」という言葉だったりする。
国軍が自国の民衆を虐殺した光州の記憶が、国民国家の深い傷になり、そこからの「和解」が求められてきた。


だが、軍隊が自国民を殺すことが、特別に罪深いことであり、自国民以外を殺すこととは異なるのだという考えは、端的に倒錯している。
世界のほとんどの国で、不幸にしてこうした考えが広く浸透しているとしても、それは倒錯した思想なのである。
とくに日本の周辺の国々に関しては、われわれは「侵略を反省しない軍事大国」の国民として、これらの国々にこうした倒錯した息苦しい思想を強いていることを、恥じるべきである。


日本は、今のところ軍隊を持たないことをうたった憲法をもち、まして徴兵制を敷いてなどいないのだから、こんな倒錯した思想を持つ必然性はないはずである。
それなのに、こんなことが自明の理のように語られているということは、そうした考え方を当然なものであると人々に思い込ませたい人間が居る、ということだろうと思う。
つまり改憲や徴兵制を含めて、軍隊を持ち戦争を行うことが当たり前の国を作っていこうと考えている人間たちである。


「軍隊は自国民を守るために戦争をする」という風に考えられている。
仮にそれが事実だとしても、自国民の命を守るために他国の人々を殺すということは、彼我の人命の価値に差別を設けなければ正当化されないはずである。
つまり、このような「殺害の罪深さの差別化(殺される命の価値の差別化)」の言説は、戦争が当たり前で正当な行為として認知されるための、地ならしなのである。