『憲法のポリティカ』

憲法のポリティカ―哲学者と政治学者の対話

憲法のポリティカ―哲学者と政治学者の対話


この本については、モジモジさんが既にレビューを書いている。
http://mojimoji.hatenablog.com/entry/2015/04/04/004027


上の記事にもあるように、安倍政権による改憲(むしろ立憲主義の破壊)に強く反対するという点では、二人の論者の意見は一致している。私も、そのことは知っていたので、読む前の予想としては、同様の意見を持つ人同士のエールの交換みたいな本になってるのではないかと思っていた。
だが読んでみると、現行憲法をめぐる二人の考えには、かなり根本的な違いがあるという印象を受けた。
その違いとは非常にざっくり言うと、九条をはじめとする戦後憲法の理念を立憲主義の精髄と捉えて、世界に広めていくべきものと積極的に評価する岡野氏と、その戦後憲法を、あくまでも軍国主義の復活に対する歯止めの装置に過ぎないと考え、その装置が元来はらんでいる欺瞞的な性格が、今日の状況のなかで露呈してきたと見る高橋氏との、スタンスの相違と言えるのではないかと思う。
このうち、特に高橋氏の考え方がよく表れていると思えるのは、沖縄の基地の問題についての発言である。
全国土のわずか1%の面積である沖縄に、実に在日米軍基地の74%(この数字は、復帰当時よりも増大している)もが集中するという現実がありながら、世論調査では80%もの国民が日米安保条約を支持しているという状況を指摘して、高橋氏は、次のように言う。

沖縄をスケープゴートにして初めて、憲法九条下の戦後日本が存在してきたことは、誰が見ても否定できないのではないでしょうか。(p131)

私も、最終ゴールは、日米安保、軍事同盟をやめて、時間がかかるかもしれませんが、東アジアのなかで安全保障をつくっていく。そのための前提として信頼を醸成していく。そういうなかで軍縮を一緒にやっていく。それが本来の道だと思っています。これまでもそうだったし、これからも目標としてはそれでいいと思いますが、そのことを唱えて日本の護憲、革新勢力は六〇年ずっとやってきている。その間、日米安保廃棄どころか、むしろいま国民の八割が支持している。沖縄の米軍基地負担率もむしろ上がっている。こういう状況のなかで、日米安保を支持している人が圧倒的多数なのであれば、「本土が米軍基地を必要としているのだから本土にもっていってくれ」と沖縄から言われたときに、否定できるはずがないと思うんです。(p140〜141)

政治が結果責任だとしたら、日本の革新政党護憲派は責任をとらなければなりません。平和運動をやっている間もずっと沖縄の人たちの犠牲は続いています。どこかにもっていかない限りは沖縄の被害が日々続いている。遠い将来に安保廃棄するように努力するのでそれまで待ってくださいと言えるでしょうか。それまでは、安保を必要としている本土において、それをなくすよう本土で努力するというのが、本来の責任なのではないか、と私は思うようになったんです。(p146〜147)

高橋氏はこのように述べて、本土の平和・基地反対運動の側は少なくとも、政府に対して、沖縄の基地を県外(本土)に移設する可能性を追求せよと、主権者として働きかけるべきではないかと、提起するのである。
こうした高橋氏の主張の底にあるのは、沖縄の問題に対する次のような思いだろう。

平和の問題だけならば安保廃棄を実現しよう、どこにも基地は置かないと言っていればよいのでしょうが、これだけの長い期間、植民地支配として犠牲を強いてきたということになれば、これは差別ないし植民地主義の問題ではないのか。(p146)

ここで語られている「平和」というのは、差別や植民地主義を許さないということを含む、本来の意味での平和ではなく、いわば偽物の平和のことだろう。
さまざまな意味で暴力の集約ともいえる軍事基地を、犠牲的な他者に集中的に担わせることによって保持される「平和」が、本物の平和であるはずはない。
その事情は、むしろ対談者の岡野氏の次のような発言に、簡潔に表現されていると言える。

(前略)わたしたちの平和感覚に安保条約のもっている力が大きな影響を与えてきている。アメリカに守ってもらっている感というのは、実はあるのではないかと思います。(p138)

この基地をめぐるくだりでは、二人のスタンスの違いは明瞭には示されないのだが、いわゆる「人道的介入・武力行使」をめぐる議論では事情が異なる。
ここでは高橋氏は、九条が「仮に文字通り実現されたとして」(これはつまり、日本が自衛のための軍備を完全に放棄したとして、という意味だろうが)という前提のもとでだが、武力行使によって介入しなければ多くの人が殺されるであろう状況下で、理念に徹して介入しないという選択は許されるのか、と疑問を呈している。
ナチスドイツの例などを引いて、その不可避性を強調する高橋氏の議論は、基地問題と同様に、説得力と切迫性に満ちている。
その論旨は、絶対平和主義という名のもとに、思考停止に陥ることへの批判だといえる。

何かあらかじめ一般的に使えるマニュアルをつくることは、きわめて難しいし、逆に無責任になる。言い換えると、絶対非暴力だということでそういうところには手を出さない、何もしないということでいいのか、ということにもなります。個々の状況を無視して、あらかじめ何もしないと決めてしまうことでいいのだろうか、と。(p179〜180)

これに対して、岡野氏の応答は、介入について否定的ないし慎重だ。

国際秩序としては、まずは武力行使が禁止されているということが大前提だということは押さえておかなければならないと思います。(p181)

岡野氏は、介入よりも、まず被害にあう危険のある人たちを、いかに逃がすかということを考えるべきだと主張する。
そして、「保護」の名のもとに行われる介入については、次のように述べる。

保護の名の下で、保護する側にどのような利害関心があるのかについては、やはり警戒するべきです。(p179)

介入しなければ確実に虐殺が行われるだろう、そして逃がすことなど実際には不可能だろうと思われる現実を考えると、岡野氏の主張は、リアリティを欠いているようにも思える。
だが、その主張の底にあるのは、どのような理由であっても、「力」が行使されるときには、実際にはより強い「力」を持っている者の利益にかなう形でしか行使がなされないはずだ、という思いだろう。
つまりそれは、相対的に強い「力」を持っている者に対する根本的な不信である。
言えることは、その不信を払拭するような根拠が、人道的介入を主張したり提起する、高橋氏のような論者の中にではなく、この世界の現実の中には、なに一つ無いに等しいということ、他ならぬそういう世界に、私たちは住んでいるということだ。
そして、こうした強者の恣意が支配する世界の現状を根底的に変えなくてはならないという一事においてこそ、この対談を行った二人の意志は、一致していると思えるのである。