二つの番組から

先週末、NHK在日朝鮮人在日コリアン)の人たちに関する二つの番組が放映された。ひとつは、『かんさい熱視線「いま、“在日”として〜大阪・朝鮮学校の1年〜」』というもので、これは大阪市内にある朝鮮学校の現状を紹介する関西ローカルの番組。もうひとつは、ETVの『戦後史証言 日本人は何をめざしてきたか』の第4回、『 猪飼野 〜在日コリアンの軌跡〜』である。



この二つの番組は、今の日本のテレビの状況では、きちんと伝えられることが極めて少なくなった「在日」の人たちの状況や心情を繊細に捉え、また特に後者の番組では歴史的事実を(ある時点までではあるが)正確に伝えていて、いずれもその意味ではたいへん価値の高い内容の番組になっていたと思う。
こうした内容であるために、局側に対するさまざまな批判や圧力が加えられていることが予想されるが、それに屈することなく、今後もこのような、歴史と現状を正確かつ丁寧に伝える番組作りを続けていただきたいというのが、ここで初めに書いておきたいことである。


だが二つの番組を見て、ここであえて苦言を呈しておかなければいけないと思う点があった。
いま書いたような事情があるので、ここに批判を書くのは躊躇われたのだが、今書いておかないと手遅れになるかもしれないと思われる節があるので、あえて書いてアップすることにする。


まず初めの「かんさい熱視線」の朝鮮学校をとりあげた回だが、この番組を毎週見ている人は分かると思うのだが、いつもの回とは大きく違う構成になっていた。この番組では、通常スタジオでキャスターとゲストの学者・専門家や記者などとが、映像を見ながら問題点を語り合うという形で進行する。それがこの回に限っては、スタジオ部分は一切なく、冒頭にキャスターが放映するにあたっての経緯のようなことを述べてドキュメント映像に入った後は、最後までそれが続き、そのドキュメント部分が終わったところで唐突に番組が終わる、という異例の構成になっていたのだ。
この全編の雰囲気から僕が感じたものは、朝鮮学校という題材を中立的に(批判的にではなく)取り上げていると、視聴者やその他の人々(報道に圧力をかけうる立場の人々)に見なされることへの局側、制作側の過敏な防御的態度だった。
そのことは、冒頭の場面でキャスターが、「私たちは、朝鮮学校を見つめました」と述べたときの強張った表情や口調に示されていたと思う。「見つめる」という言葉に、この場合に込められていたのは、「監視」のニュアンスであろう。そのメッセージを発さなくては、「朝鮮学校」の存在に対して好意的であると見なされ、激しい批判や圧迫にさらされるという報道側の緊張と警戒感が、そこからはうかがえたと思う。
実際、この冒頭の語りの中では、大阪府・市による補助金の打ち切りということが語られているのだが、番組全体を通して、それに対する批判はおろか、補助金打ち切りやいわゆる「高校無償化」からの排除といった国と自治体の政策が、朝鮮学校に関わる人たちの現状の困難さの重要な一因をなしているという問題性への指摘すら、一度も聞かれなかったと思う。
番組は終始、「朝鮮学校は問題含みの存在」であり、「補助金打ち切りなどの措置にもそれなりの妥当性がある」という、国や行政の、また社会一般(と思われる)の規範的意識のようなものを逸脱することなく、むしろそれに従っていることを明示しながら、あくまでその枠内で、「朝鮮学校の生徒や教師たちの苦境や悩み」を描いていく。
決して、それが番組製作者の意図だと断じたいわけではないが、結果として見る者には、日本社会のリベラルな寛容性(共生という言葉に象徴される)に順応しようとしない朝鮮学校側の硬直性こそ、生徒や関係者の苦悩の主たる原因であるかのような印象を与えることになったと思われるのだ。
事実、この番組には一時、「共生への模索」という仮題が付けられていたらしい。僕はもちろん、共生という理念自体にケチをつけたいわけではない。だが、ここで日本の報道や社会全体によって言われる「共生」が、朝鮮学校の現在のようなあり方を認めず(問題含みの、危険性を含んだ存在と見なし)、また朝鮮学校に対する差別的な政策や偏見を、むしろ妥当なもの、当然のものと見なすような態度を正当化するための概念であるなら、そうした用法は、本来の「共生」の理念をまったく否定するものだと言わねばならない。
番組の冒頭には、忌まわしい鶴橋の排外デモの様子が描かれ、それを見つめる朝鮮学校の教員の表情と言葉が捉えられていることには、報道として大きな意味があったと思うのだが、このような市民レベルの差別(レイシズム)の現状の批判的な描写と、その暴力に直面している人々への(その限りでは)共感的な描き方とは、それが政治的・制度的な差別の不当さを描かずかえって支持するかのような番組全体の論調のなかに置かれたとき、まるでその自分たち(社会と報道)の根本的な差別性・暴力性を隠ぺいするアリバイのようなものとして作用するのではないか?


このような問題のある構成になってしまったのは、番組・報道に対して差し向けられるであろう批判や圧力に対して、制作側の人たちが委縮したことが、主たる原因なのだろう。そうした報じる側の緊張を反映してか、画面に緊張する生徒や関係者たちの表情も、暗い緊張したものが多かった気がする。
その表情や言動の暗さと緊張は、たしかに朝鮮学校に関わる人たちが置かれた現実の過酷さによるものだろうが、同時に、社会からの圧力やバッシングに委縮して大勢に同調してしまうような日本人(マジョリティ)のこの精神のあり方こそが、この人々の緊張や暗さを作り出す大きな要素になっているのではないか。これは番組関係者だけでなく、僕たちすべてが考えなくてはならないことでもあるだろう。
この番組が、そうした社会全体の差別的な意識に同調するかのような内容によって、朝鮮学校に関わる人たちを取り巻く過酷さを増大させる一つの要素になってしまったのでは、この学校に密着して取材を続けてきた人たちの本来の願いとは、まったく相反することになるはずである。


次に、ETVの番組について。
先にも書いたように、この番組はとくに戦後史の中途までは、在日の人たちをめぐる歴史の流れを克明に追って、最近のテレビ番組の中でも出色の内容になっていたと思う。
だがここにも、現在の日本の政治状況に由来すると思われる重大な難点のあったことを、書かないわけにはいかない。
この企画の総タイトル(「日本人は何をめざしてきたか」)からもうかがえると思うのだが、この番組では、在日コリアンの人たちの歴史、特にその民族教育をめぐる歴史というものが、一言でいえば「共生」という言葉に象徴されるような文脈において描かれる。つまり、最終的な理想像として考えられているのは、日本人とか朝鮮人という枠を越えるような、リベラルな社会像・教育像である。
それはそれでよいのだが、ひとつにはこの歴史の描き方は、そうした真の「共生」を阻害するような政治的現実から中途でまったく目をそらしてしまっているため、在日の人たちが現に耐え忍ぶことになっている困難さを、ある種やむを得ないものとして正当化するような結論になっていたと思う。


そのことはひとまず置くとしても、大事なのは次の点である。
先にも書いたように、「共生」はそれ自体では、立派なひとつの理念であり、その理念のもとに描かれた民族教育の歴史も、十二分な正当性を持つものだという他ない。
いやそれは、たんにひとつの妥当性や正当性を持つ見方とか、立場といったものではなく、マイノリティが、とりわけその子どもたちが過酷な現実を生き抜いていくための戦略としての意義を有しているのだろう。
日本の現状を率直に見れば、朝鮮学校が行っているようなタイプの民族教育(それは、植民地支配を受けてきた人たちがとる、アイデンティティの確立のための一つの戦略としての分離主義的な傾向の教育ということだが)の保障というものは、それこそ「ラクダが針の穴を通るよりも」という常套句を使いたくなるほどに、獲得することが難しいものになっているというしかないだろう。
その中で、民族教育が本当に子どもたちにとって必要だと考えるなら、「共生」という日本社会にとってぎりぎり許容可能な(いまや、その理念の存続すら困難だとはいえ)民族教育のあり方を指針として採用することは、それが日本社会の体質に起因する多くの限界をはらんだ道であるとしても、誰にも(とりわけ日本人には)非難される筋合いのない選択というべきなのだ。
だが問題は、こうした在日の人たちの、ぎりぎりの選択の対象である民族教育の「共生」的な理念と、それに基づく歴史像を、日本の公共放送局が、あたかもそれが正当な唯一の教育観・歴史観であるかのように整理して報じることによって、その正統的な像からはみ出る存在としての朝鮮学校に対する、現在の日本の抑圧的・差別的な政策を正当化し後押しするような効果を生みかねない、ということなのだ。
在日の人たちにとって「共生」という価値観は、人として当たり前に生きていくために必要な、かけがえのないものであろうが、日本の公共放送局が、ある意図のもとにそれを唯一の正統的な価値観として示し、その価値観のもとに歴史を再構成するとき、それは「共生」という言葉を差別的な政治の現状を正当化するための装置に変えてしまっているのである。


具体的に書くと、たとえば先にも述べたようにこの番組では、在日の人たちをめぐる歴史の事実が、一つのリベラル的な価値観のもとに、克明にたどられていくのだが、ある時点から政治の次元の動きは一切触れられなくなり、差別と闘いながら生きていく在日の人たちの日常的な姿だけが描かれるようになる。この叙述は、もちろん非常に重要なものなのだが、その一方で、そこでは一般的な意味での政治的現実の説明が全く欠落することになる。
この「ある時点」というのは、ほぼ日韓条約締結の頃なのだが、そこまでは、不十分なところ(それは要するに、戦後の日本の政治の植民地主義的な体質に触れていないということである)がありながらもそれなりに語られてきた政治・社会の大枠の動きが、画面からまったく消えてしまうのだ。
この奇妙なコードチェンジが意味しているのは、「現在の政治」の問題(その差別性)に触れることへの、製作者側の忌避、あるいは恐れのようなものだろう。
「共生」の物語の克明さは、その製作者たちの忌避の姿勢の異様なまでの強さの、裏返しでもあったと思われるのである。


はっきりいえば、ここでNHKがやっていることは、民族教育に関して、あるタイプの考え方だけを選択的に採用し語ることによって、在日の人たちの間に、新たな分断の状況を作り出すものであると、僕には思われる。
なぜ分断が作り出される必要があるのかといえば、それはいま政府が進めつつある政策にとって、分断と朝鮮学校の孤立化とが、有利に働くからである。この番組も(先に触れた番組と同様に)、やはりそういう現在の日本政府の方針から、決してはみ出さず、むしろ協力するような配慮のもとに製作されてしまった部分があるのではないか?
たとえそれが制作側の「自己規制」のようなものだったとしても、そうさせるだけの圧迫力が、(とりわけETVに対しては)今の政権にはあるであろう。
僕が象徴的だと思ったのは、いわゆる「帰国事業」について、日本政府の「協力」の意図が、当時の岸信介首相の口吻をそのまま報じて、たんに人道的配慮によるものだったかのように描かれていたことである。
あれが、ていのいい治安対策であり社会保障費削減対策、いずれにせよ終戦直後と変わらぬ朝鮮人追い出し政策の一環という性格を含むものであったことは、今では誰でも知っているはずだ。
そうした裏の「思惑」は、日本の側については決して語られることがないのである。それが、当時の最高権力者(岸)の孫である政治家の強権に対する、局側の恐怖感を物語るものでもあったということは、過度な想像とはいえないと思う。


最後に、この二つの番組に関して、僕が最も危惧するところをあらためて書けば、それは民族教育のあり方についての意見の違いであったり、あるいは例えばレイシズムの脅威というような、在日の人たちが生きていくために重大な意味を持つ事柄を、日本の国と社会が現在行っている差別を隠ぺいし、正当化するための道具として使ってしまうことがあってはならないということであり、またそのことによって、在日の人たちの間に再び深刻な分断の状態を、われわれが押しつけることは許されない、ということである。
これらの番組では、在日の人々が苦悩し、緊張し、困難な現実を懸命に生き抜いて行こうとする姿は、とても克明に捉えられていたけれども、そうした困難さの最も重要な要因については、決してカメラに映し出されることも語られることもなかった。
つまりそこには、今の日本そのものの像、私たち自身の真実の姿が、まったく欠落していたのである。