われわれが引き受けるべきもの

オスプレイの訓練の一部を大阪(八尾空港)で受けいれるという、松井府知事や橋下市長の発言が、またも波紋を広げている。
僕は、これは単に松井知事や橋下市長だけの思いつきや打算によるものではなく、オスプレイの全国展開や自衛隊オスプレイ配備の公然化など、米国と自民党政権それに産業界の思惑が背後にある動きであって、維新はそのための下準備をやらされてるようなものではないかと疑っているのだが、それはともかくとして、ここでは別に考えたいことがある。


それは、この「提案」が、「沖縄の負担を軽減するため」というもっともらしいロジックによって為されていることについてだ。
誰でも、このことから昨年来の(大阪初め各地への)震災瓦礫の受入れと焼却のさいの経緯を思い出すだろう。
あの時にも、橋下や松井たちの(そして政府や環境省の)言い分は、「被災地の困難を軽減するため」ということであり、それを受け入れることが「絆」の実現にもなるという謳い文句だった。
それに対して、受入れ反対派の人たちからは、それが実際には被災地の危険や負担の軽減のためになされるものではなく、もっぱら利権の獲得のために行なわれる政策に過ぎないという趣旨の批判が多くなされた。
この批判は、たしかに的確なものであったと思う。
原発推進をやめようとしない、民主・自民の両政権や、橋下、松井のような政治家が、差別解消や被災地の負担の軽減などを本気で考えているわけがないと、僕も思う。


だが、「被災地のために」という言い分が実は利権の獲得という本当の目的を隠すための方便に過ぎないという事実を、どれだけ論証しても、それで「瓦礫受入れ問題」がわれわれに投げかける「悩ましさ」を解消することはできないだろう。
それは、言うまでもないが、受入れの拒否が、原発の問題のひとつの本質ともいえる差別の構造、つまり一部地域への犠牲的な負担の押し付けの構造を維持する(加担する)ことを意味するのではないか、という内心の問いを打ち消し難いからである。
この同じ「悩ましさ」を、今回のオスプレイの大阪への「受入れ」をめぐる動きに関しても感じることは、決して間違った感じ方とは言えないだろう。
原発にせよ、基地にせよ、これまで特定の(周縁的とされる)地域にその負担を押しつけることによって得られる繁栄なり安定のなかで、自分たちは暮らしたり考えたりしてきたのではなかったかという自省は、やはり倫理的なものであると思われるし、そこから生じる「受入れ」の可否をめぐる煩悶は、十分に共感できるものでもあるからだ。


「瓦礫」をめぐる事柄と、オスプレイに代表されるような「基地」に関する事柄とでは、事情が全く同じとは言えないものの、上に書いたような「悩ましさ」を感じさせる点では共通している。いや、そういうものを感じさせることが狙いで、こうしたロジックによってこれらの政治的提案(実際は押し付け)が為されていることは間違いないだろう。
そこで、これまで「瓦礫」問題について述べてきた僕の基本的な反対の理由を、いま一度、今回の事柄に結びつける形で論じ直しておきたい。


「瓦礫」の問題についても「基地」をめぐる問題についても、僕の基本的な考えは、それらをわれわれが「受け入れる」ことが、福島などの被災地や沖縄の人たちが、これまでも今も強いられている被害や苦痛を、いっそう深めることにしかならないであろう、ということである。
都市の人間が、焼却された瓦礫によって被曝したり、オスプレイの危険を受け入れることは、そのような受忍が「誰でも日常的に受け入れているものである」という既成事実を作り出し、国民である以上は当然耐え忍ぶべき苦痛であるという了解を、社会のなかに定着させる。
すると、福島(や他の原発立地)の人たち、瓦礫の存在する被災地の人たちが被曝を強いられている現実も、また沖縄の人たちが危険や苦痛に耐えている現実も、(都市部とは)程度の差こそあれ、国民である以上はやはり受忍するべきものであるという「空気」が、それらの人たちに強烈にのしかかるはずである。
「われわれも耐えているのだから、あなたたちも耐えるのは当然だ」という論理が、福島や沖縄の人たちを締め付ける。実際、福島の人たちの「避難の権利」の実情が、諸自治体の「瓦礫受入れ」によって改善したということはなく、むしろ現状はその逆に推移していると見るべきであろう。
つまり、「負担の軽減」とか「分担」というのは、結果的には、いま現在福島や沖縄の人たちが強いられている犠牲的な苦痛を永続化し、自明な日常的現実のようにしてしまうことにしかつながらないであろうというのが、当初からの僕の考えなのである。


実際、このオスプレイ移転問題についての大阪での報道の中でも、八尾市民の声として、「ある程度の負担は、われわれも引き受けなければいけないのではないか」といった意見が聞かれる。
厳しい言い方になるが、これは僕の耳には、「われわれもこのぐらいは引き受けてやるのだから、お前たち(沖縄の人たち)もこれまで通り我慢し続けろよ」と言っているようにしか聞こえない。
「沖縄の負担を軽減するために、一部を肩代わりしよう」という市民の声が、本当に沖縄の人たちの被害や差別を無くそうという意志に基づいているとは、残念ながら考えにくいのである。


沖縄の被害や負担の一部を引き受けるということは、その原因である「基地」の現実を、基本的には肯定するということである。
同様に、瓦礫焼却による被曝のリスクを引き受けうるということは、原発による被曝のリスクという一般的な事実を肯定してしまうことでもある。
それでは、仮に「引き受け」によって幾らかの「負担軽減」が実現することがあったとしても、立場の弱い者に被害が押し付けられていくという、軍隊や原発にまつわる不当な現実のあり方が否定され無くなっていくことには、決してつながらないはずだ。


のみならず、福島、東北や沖縄に対する差別というものも、そこでは決して解消されることはない。
差別というものは、根本的には、軍隊・戦争や原発に代表されるような、「平等な生」の否定ということと結びついているからだ。
負担の引き受けによって、その否定は、沖縄や福島の人たちから、都市に住むわれわれ自身へと向きを変えるだけで、決して弱まりはしない。
他人であれ自分らであれ、生を否定する態度は、差別を生み出し固定化せずにはいないのである。


基地そのもの、原発(被曝)そのものが生命の否定であり、差別の産物であると同時に源なのであって、それを廃していくという根本なしには、われわれが沖縄や福島の人たちの苦痛を無くしていくという責任を果たすことは出来ないのだ。
日米の軍事同盟の維持どころか強化を狙っていることが誰の目にも明らかな自民党政権や極右政治家たちの押し付ける「負担軽減」策が、理想論的にはどのように見えても、現実には決して被害の暴力性や、差別の現実を和らげる結果を生まないだろうということを、多くの人が自覚するべきだと思う。
福島や沖縄の人たちを、われわれ自身も間違いなくそこに加担している暴力と差別の現実から解き放つには、われわれ自身がこの軍事と原発による見かけの繁栄や安定から、身を引き剥がして反対していくという態度が必須だろう。
「この安定を手放さないために、われわれもある程度の負担は引き受けるから、あなたたちも今まで通り我慢して欲しい」という言い分は駄目なのだ。
われわれが本当に「引き受ける」べきなのは、生命を否定するような不当な被害や苦痛などではなく、その不当な現実と闘うことの勇気と困難さである。
沖縄の人たちや福島の人たちに苦痛を強いているこの不当な現実と闘うために、われわれも同じ覚悟と熱意で、この不当な仕組みを拒み対決する。そうした気持ちを持つことが、何より大切なのだと思う。