受忍の共同体

今更言うまでもないが、震災瓦礫の受け入れについては、原発に強く反対する人の中にも、被災地を救うためには瓦礫を受け入れるべきであり、強硬な搬入阻止行動などは地域エゴであるとするような意見が多く見られる。
汚染の心配のある瓦礫を受け入れず、それを福島や他の被災地に置き続けることは、差別そのものではないか、というわけだ。
だが、それは違うと思う。
最近何度か書いてきたところだが、あらためて意見を述べておきたい。



この問題は、基本的には「汚染(被曝)の拡散に対する反対」という一般的な事柄でもあろうが、同時に、「自分の住む地域が汚染されることへの反対」という側面も、保持されるべきだと思う。それは、自分自身の生命や生活に直接関わるこの回路を通してでなければ、他人(福島、東北の人たち)の生命の軽視という問題、つまり差別の問題に十分向き合うことが出来ないはずだからだ。
自分や自分の家族に及ぶかもしれない被曝の危険、そのことへの不安を抑圧しながら、つまり自分で自分の生の大切さを否認しておきながら、一方で他人の生命の大切さを本当に考えることができるだろうか?
自己抑圧や自己否定(それこそが差別の根だ)に基づいた「共感」とか「平等」とか「連帯」(絆)ということは、差別の仕組を越えられない空虚なものだと思う。
いや、自己犠牲に基づいた共同体とは、むしろ差別を生み出し続ける構造そのものというべきだ。


僕自身の日常を考えても、原発事故が起きるずっと以前から、自分の生命や、人と共にある生活ということについて、根の深い諦めの感情がある。
同じものをほとんどの人に抱かせるのが、今のこの社会の現実だろう。誰もが、自分の生に諦めを抱きながら、その諦めている事実にも蓋をしながらでなければ生活していけない、そういう現実がある。そのリスクが確率によって測られるしかない放射能汚染は、この日常的な諦めを、さらに決定的に強める効果を持つものだろう。
福島からの「避難」の問題を考えれば分かることだが、自分が自分の生命を諦めながら生きるというこの態度は、他人がその人自身の生命に諦めを抱きながら生き続けることを、「それもやむをえない選択なのだ」と言って「理解」し、そうした状況を容認してしまうことにつながる。
被曝の危険を考えれば避難することが良いのは分かっていても、そう出来ない人たちも居る。その苦渋の心情に、暴力的に立ち入るべきではない、という姿勢である。
そこでは、想像された他人の心情(の尊重)を理由にして、他人の生の選択に介入しないことの正当化ばかりでなく、自己否定しながら生きている自分の日々の生き方の正当化(隠蔽)も、同時にはかられていると言わざるをえない。
これは、繊細で、自分が自己の生命を否定しながら生きていることに自覚的であり、それゆえに同様の困難な境遇にあると考えられる人たちへの共感能力が高い人ほど、かえってそうなる危険性が高いのではないかと思う。


ここには、自己の「受忍」(生への諦め)という行為によって、他人の生への諦めが容認され、下支えされてしまうような構造がある。そして、そのようなものとして投影的に想像された他人の「受忍」によって、逆に自己の「受忍」も当然の態度のように考えられ内面化されていくことなる。
諦めの心情を「共感」することによって形成されるような共同性である。そこでは不正義に対する「怒り」の感情も、この共同性の枠組みを突き破ることは困難になる。
この「受忍の共同体」とも呼ぶべきものは、この国が長い年月にわたって維持してきた、情念的とも呼べる一つの支配の仕組みなのだが、この期に及んでも、権力を持つ人々は、それをわれわれに押し付けることで、自分たちの信じる「国益」だか「統合」だかを保持しようと足掻いているらしい。


われわれが、福島や他の被災地の人たちとの人間同士の関係、差別的でない関係を作ることは、被曝の危険や非人間的な日常に対する「受忍」の分有や、自己犠牲に基づく連帯によって可能になるのではない。
それは、自分自身の生命についても、どのような選択をした他人の生命についても、決して「諦め」を受け入れない態度によってだけ、可能性が開かれるものだ。「受忍」や自己犠牲を強いてくるような、有形無形の権力に、あくまで否と言いつづけること。
他人の思いを尊重しながら、時にはそれを越えてでも、他人の(そして自分の)生命にこだわるべきなのだ。
瓦礫の拡散に反対し、自分の生命を尊重して、身体が被曝の脅威にさらされることを頑強に拒むということ、まして国や行政の不当な権力によってそれが強いられることを、決して受け入れないという態度こそが、被災地や原発のある地域の人たちと、そうでないわれわれとの、差別的ではない関係を、きっと切り拓く端緒になるはずである。