犠牲と原発

いま、死傷者を出しながら、福島の原発では文字通り決死的な作業が続けられている。
政府はこれに関し、作業員の被ばく量限度を引き上げる決定をしたという。恐ろしい決定だ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110315/plc11031523070047-n1.htm


こうした現状について、「大事故で最悪の事態になるのを防ぐためには、仕方がない」などとは言えない。
もちろん、ぼくは大事故になることは怖いので、作業をするなという勇気はないが、こうやって明らかに死んだり被害を受けたりする人が出る現場に、自分たちの安全の確保のために、他人(労働者)を送り込んでいるという現実は、とても「仕方がない」と言って片付けることは出来ないはずだ。
また、「この人たちの努力に感謝し、経緯を払え」という言い草も、つまりは「尊い犠牲」というような言い方と同じであって、人の生命や死の重さ、自分たちがそういう場所に他人を追いやっているという事実の重さを否認するための方便にすぎないものである。
「仕方がない」とか、「感謝、敬意を払え」というような言い草は、他人を死に向かわせることで自分たちの安定や安全が保たれているという現実から目をそむけ、そういう現実のあり方を維持し続けるという意図のもとに出てくるものだと思う。


原発での労働について忘れてはならないことは、いま行われている作業や労働が、危険で酷いものであると言っても、それは今だけのことではなく、原発というものが出来てから、ずっと同様の環境において労働者たちは働かされてきたのだ、という事実である。
それについて、以下のような証言がある。
これらは、私の駄文とは違って、重要な証言だと思うので、是非読んで欲しい。
http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html#page1

http://www.jca.apc.org/mihama/rosai/elmundo030608.htm



つまり、日本の原発というのは、そこで働く人の生命の重さを無視し、否定し、踏み台にしたところで、初めて成り立ってきたものなのだ。
もちろん、反原発派の人たちが言うように、原子力による発電は、どこの国で行われても危険なものなのであろう。
だが同時に、日本における原子力発電なるもののあり方の、特有の酷さ、反人間性と呼べるものがあり、それが福島原発の現状を招いているのだと思う。
その生命の対する軽視は、たとえば薬害問題や、公害問題など、日本のさまざまな社会問題に根底において通じている、国家と社会の体質のようなものだ。


ことに原発に関しては、それが「核」をめぐる事柄であるという特殊性がある。
これはぼくの考えだが、日本では、広島・長崎の被爆ということもあって、核に関することは、ずっとタブーになってきた。
だがそれは、どういう意味でタブーかといえば、「核に反対する」という意味(それこそが叫ばれるべきだったのだが)よりも、「核による被害者の存在を不可視にする」「被害者たちの声を封じ込める」という意味で、タブーにしたのだ。
このことが、被害を受ける現場の労働者たちの「犠牲」(嫌な言葉だが)の上に成り立ち、その「犠牲」にされる人たちの存在を隠蔽・忘却することで維持されていく、日本の原子力産業というもののあり方に結びついてるのだと思う。


つまり私たちは、核に積極的に反対する代わりに、その事実性には触れないことで、政府や行政・企業が人道に反するやり方で原子力発電というものを推進していくことを黙認する道を選んだ。
私たちは、他人の生命の重さを無視して、その人たちを死に追いやることで成り立つような安定と安全、繁栄といったものを享受する社会を選択してきたのだ。
今、「危険な作業に従事してる人たちに敬意を払え」と、ネット上で叫んでいる人の多くは、この事実に、内心で気づいているのだと思う。
つまり彼らは、「俺たち(私たち)の安定と繁栄の仕組みにケチをつけるな!」と言いたいのである。


他人の生命の重さを否定した上で、その上に自分たちの繁栄や安定・安全を築いていこうとする態度は、それを選択している社会の多数者たち、つまりわれわれ一般市民自身の内面、生命に関わる部分をも、損なわずにはいないだろう。
ネットやマスコミの論調、それを盲信しようとする人たちが多いことは、それを証明しているともいえる。
そして、もっと本質的なのは、これは「核」だけでなく、日本の社会全体のあり方に関わる問題でもあるということだ。
実際、一部の人たちだけに危険や負担を押し付けておいて、その事実をひたすら否認しつつ維持することで安定を手放すまいという態度は、「沖縄」に対する日本社会の態度と同型である(あた、朝鮮半島やアジアに対しても、ずっとそうしてきた。)。
また、労働現場の反人間的な状況に目を閉ざすことで、安定や繁栄を維持しようという下劣な根性は、「派遣切り」など、雇用・労働をめぐる問題一般にも通じている。
こうした根性は、今回の災害からの復興についての官僚やエコノミストの主張の一部に出てきているものでもある。つまり、「これまでの経済のあり方の維持」を強調する物言いだ。その「これまでの経済」こそ、特に日本においては、こんな災厄をもたらした重要な一因であるというのに・・。


ともかくこれは、ひとり「原発」だけの問題ではないのだ。
この意味では、「原発」という悪さえ除去すれば、人間的で好ましい生活世界が回復されるというような考え方にも、違和感を覚える(反原発派の人たちが、そんな単純な考え方をしてるとは思わないが)。
かりに「原発」が除去されても(そうされるべきだと思うが)、犠牲と、それを否認する、この社会の構造が残ってしまうなら、基本的には問題は解決されない。


一部の人間の生命の重さを軽視・否定し、その人たちの生命を代償(犠牲)にするようにして成り立つ、この社会のあり方を根本的に変えることこそが、いま肝心のことなのだ。
こういうあり方を、戦争の時代から、日本は変えられないままに、ここまで来てしまったのだと思う。
そして、こうした社会のあり方を批判せずに生きていくことは、自分自身をも蝕む。
ぼく自身、何度か原発で働くバイトの面接に行き、採用されてほとんど出向きかけたこともある。その時は結局、怖かったからか、行かなかったのだが、もし行ってれば、今こうして健康にはしてられないかもしれない。
原発での信じられないような労働環境について、上に引用したサイトには書いてあるが、それが必ずしも「信じられない」ものではないことを、非常勤労働の現場を経験してきたぼくらは知ってるはずである。
アスベストなどの有害な物質があると分かっていても、マスクも手袋も渡されず働かされるような現実。


今、死に瀕しながら作業に従事している人々の存在から、ぼくたちが学べることがあるとしたら(この言い方の犯罪性を自覚しながら)、それは、こうした反人間的な、ぼくたちの国と社会のあり方を、根本から見直し、何とか作り変えていこうとすることだと思う。
現在行われつつある作業を含めて、ぼくたちが自分と他人とに強いている「犠牲」的な労働の反人間性を直視し、その原理に反対していくことが、求められているのだ。