『日本が誇るべきこと、省みること、そして内外に伝えるべきこと〜「慰安婦」問題の理解のために』
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20130525-00025178/
このインタビューの中で大沼氏が語っているように、個々の被害者の在り方は当然ながら多様であり、そのなかにはきっと、「女性基金」のような形でも救済(謝罪や補償)に応じたいという方たちも居られたであろう。
その人に関しては、たしかに両国の国家の理屈や国民的な論理といったものからは、こぼれ落ちてしまうことになるだろうと思う。だから、このような民間の形をとってでも救済することは、時には必要であったり、貴重な人間的な尽力であるのだろう。
そこまではよい。
だが問題は、そのこと(「女性基金」のような民間の活動)が、もし本来国家が為すべき謝罪や責任の明確化や補償といったことの、免責や曖昧化に加担する場合には、それは「救済」を道具にした被害者の人格への侮蔑となったり、「救済」(「和解」)を拒む他の被害者や支援者への攻撃につながるものとなり、要するに被害者たちを傷つけ分断する一個の政治的な暴力になってしまうであろう、ということである。
実際に、「女性基金」はそのようなものとして働いたのだ。
この事実の重さに比べれば、ここで大沼氏が述べている、日本人としての「誇り」など、僕にはまったくどうでもいいことだと思えるのだが、大沼氏にとってはそうではないようだ。
彼は次のように言うのである。
日本の民族、日本の国に誇りを持つことは大事なことです。誇りを持つに足る国だと思います。まず、そこははっきりさせましょう。特に、戦後の焼け野原から立ちあがり、豊かで安全で、自国より貧しい国には多額の経済援助、技術援助をする国を作り上げてきた。このことは、世界に胸を張って誇るべきことであり、もっと語られていいと思います。若い人たちにもぜひ誇りを持たせて欲しい。
ただ、だからといってかつてやった戦争まで、自衛のためであって侵略ではなかったとか、南京大虐殺はなかったとか、それは違うでしょう。南京の被害者は30万人というのは嘘だとーー嘘だと私も思いますがーーそれをギャーギャー言うことで誇りを持たせようというのは違うと思います。
日本が誇るべきは何か、を考えないといけないのではないですか。
なぜ、「まず、そこをはっきりさせ」なければいけないのかが、僕にはまったく分からない。
そもそも、「誇りを持つことが大事」だという主張を仮に認めるとしても、それがなぜ、よりによって「慰安婦」問題というこの事柄において、「日本」の国や民族に対する誇りという、集団的・政治的なものでなければならないのか、そこが本当に理解できない。
いったい、大沼氏が大切にしてきた筈の、被害者個々人というのは、どこに消えてしまったのだ?
少なくとも、「誇り」は、ここでは出発点であってはならず、努力の結果としてはじめて到達されるべきもの、それが目指されるべきものではないか?それが「まず、そこを」という第一義のこと、譲れない出発点であり前提として強調されているところに、論旨の倒錯と呼べるものを感じないわけにいかないのだ。
ここには、大沼氏の、国家にたいする距離、スタンスが反映されているのだと思う。
大沼氏は、国家の論理に回収されない個人的・非政治的な立場でこの問題に取り組んだように見えるが、最初からなのか、あるいは途中からそれが明確になっていったのか、ともかく自分が属する国家の論理に同一化するような仕方で、この問題に向き合うようになったのだと思われる。
ここでの「国家」とは、無論、「慰安婦」問題への責任をまったく否認し続ける、この国家のことだ。
このインタビューの中でも、僕が特に強い違和感を抱くのは、次のような箇所だ。
この怒りは、正当なものだと思います。日本の有力なメディアも、政治家も、私たち専門家も、そういう国民の思いを、韓国や中国や欧米に伝えることを怠ってきました。特に、政府の責任は大きいと思います。担当者は、自分が担当している期間は波風立てたくないと、首をすくめて嵐が過ぎるのを待つだけ。「私たちはここまでやってきたんだから、堂々と発信して、韓国のメディアとも戦いましょう」と何十回言ってもダメでした。
日本のいわゆる「良識的な」メディアも、韓国のメディアの問題点は、まったく取り上げない。むしろ、「国家賠償を行わず、法的責任は取らなかったのは不十分」という論調でした。
ここで大沼氏が、日本国民の心情として語っているのは、氏自身の心情(善意)を投影した理想像のようものにすぎないだろう。理解されないことへの「怒り」も含めてそうである。
はっきり言えば、氏はここで「理解されなかった」自分の憤懣を、極右化していく日本社会の情勢の分析という見掛けに託して吐露しているとしか、僕には思えない。
だが問題は、なぜこのような投影がなされるのか、ということだ。
日本のメディアや政治家や専門家が、韓国側に対して言うべきことを言わない、ということへの大沼氏の非難は、ここでは一見、公平さを求める主張のように述べられている。つまり、対等な立場にたった関係性の要請、ということである。
だがその底にあるのは、大沼氏自身が拠り所とする国民的自己意識、つまり「日本人の誇り」というものの、政治的無罪性についての信念を守ろうとする、頑なな意志だろう。
大沼氏に限らず、戦後日本の国民的な自己意識は、朝鮮との関係についていえば、朝鮮半島の分断や、植民地支配の補償の放棄や、在日朝鮮人への差別の継続といった、いわば他者の苦痛を代償にして安定が確保されたものだ。
つまりそれは、個人の意志や努力によってはぬぐい去ることの出来ない有責性をはらんでいるのであり、それを認めることは、この国民的自己意識の根底に存在する深い「分裂」を自覚することになる。
朝鮮半島(旧植民地)との関係を掘り下げたとき、良心的日本人、とくに自己の精神の自由や学問的中立性を標榜する知識人が直面することになるのは、この「分裂」に脅かされる感覚なのだ。
大沼氏のような人が、韓国(アジア)との関係でことさらに「公平」さを主張する時の激しさと執拗さは、たんに学者的な態度(正確にそんなものがあるかどうか知らないが)とか倫理的潔癖さといったものによるのではなく、この有責性を、つまりは自己の安定した国民的意識の根底に存在する分裂を、認めたくないという頑なな心情の表われだと思う。
だからこそ、こうした氏の主張は、橋下や在特会にも象徴される現在の日本社会の極右化の主要な遠因を、韓日両国の運動団体の「独善性」に求めるというような、自己の心情の投影に基づく信じ難い倒錯(国家権力の論理への同一化)にまで突っ走ってしまうのである。
結局のところ、今の大沼氏の発言には、彼がかつて志したのであろう、国家や国民(民族)的共同体の論理からこぼれ落ちる個人の多様な生への眼差しというものは、もはや見る影もないとしか言いようがない。
そうなった根本の原因は、「慰安婦」問題への正面からの取り組みを回避し続けてきたこの国の政府にあることは明白なのだが、自らが同一化し続けようと願望する国家のそうした実態を批判を込めて直視する道は、いつからか大沼氏自身によって完全に閉ざされてしまったのであろう。