先日の記事への補足

先日『オルタ』の「労働開国?」と題された特集についてのエントリーのなかに、こう書いた。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20081207/p1

五十嵐が言うように、労働条件を改善することを放置して、むしろそれを改善しないために外国人労働者や移民の導入が推進されるのであれば、これは許されないことである。


だが自由化(開国)に反対の理由が、たんに「日本人の労働者が困るから」ということであれば、自分たち(日本)の側の都合だけで自由化を推進しようとしている側の論理と、何ら変らない。


ここは、はっきりしておく必要がある。

この箇所は、表現がたいへんまずかったと思うのだが、「だが」で始まる二段目の文章によって、「討議」の文章における五十嵐泰正の発言の全体に批判を向けているような印象を与えたかと思う。
実際には、五十嵐の発言は、ぼくがあのエントリーで主張した趣旨と対立するようなものではない。むしろ、ぼくがつたない表現で言おうとしたことを、詳しく整理して述べていると思えるものである。
前回は、発言の断片しか紹介できなかったので、ここでは少し長めに五十嵐の発言を紹介しながら、そのことを確認し、同時に自分の論旨もあらためて明らかにしておきたい。


五十嵐の立場は、この「討議」全体の最後にあたる、次のような発言に集約されているであろう。

現状での労働開国には反対です。理由は明確で、国内の労働条件の劣悪化が顕著だから、それから雇用の流動化・断片化があまりにも行き過ぎているから。外国人を受け入れるまでの条件がいくつかあって、雇用法制や最低賃金をはじめセーフティーネットが整わない段階で受入れをすることには非常に抵抗があります。(中略)
 ただ、この一、二年で格差や貧困をめぐる議論が急速に進展し、労働側の声がようやく取り上げられるようになってきました。そういう政治状況からして、このタイミングで安易な低賃金労働者の受入れをしたら、また振り出しに戻ってしまうと懸念しています。ただでさえリーマンショック以降の状況では、どう転がるかわからないのに。最終的に移民国家に踏み出すのはやぶさかではないんですが、そもそも先進国においては、最低賃金や労働時間から見て、こんなに労働条件が劣悪な国はないわけで、この構造が温存されるのはヤバいと思います。労働開国は国内の雇用・労働環境を整えたうえでの話であるというのが基本的な意見で、結局のところ、そういう慎重な道順を踏まずには、多文化が尊重された、あるべき移民国家にも近づけないと思います。(p18)


リーマンショック以降の状況では、どう転がるかわからないのに』という危惧は、現在まさしく現実のものとなっている。
それはともかく、五十嵐の論旨は、先進国のなかでも際立って劣悪な国内労働者の労働環境を改善することなしには、「労働開国」は、「あるべき移民国家」とも程遠い、非人間的ともいえる社会構造の継続にしかならない、ということだろう。
この見方は、ぼくもまったく共有するところだ。


また、別の箇所では五十嵐は、日本(先進国)の国内労働者にとって、(外から見るなら)国境が「既得権」に他ならないということを認めたうえで、いわゆる構造改革(やグローバル化)を叫ぶ勢力は、社会保障や諸々の規制のような「既得権」と同様に、この国境という「既得権」をも労働市場流動性を阻害する障壁ととらえて切り崩せと主張しているのだと現状を分析し、次のように語っている。

逆に言えば、既得権攻撃のロジックでポピュリスト的な支持を得てきた構造改革がこんな結果をもたらしている以上、彼らの思惑に乗って国境コントロールを緩めることが、いったい何をもたらすのかというね。もっとも、先進国の人間は自由に移動できるのに、途上国の人間はできない、その本質的な格差というのは本来容認しえないわけで、そこから言われたら僕もグッと詰まってしまうんですが、果たしてその覚悟が本当にあるのかと。そういうことが結果的に問われていると思うんですよ、言っちゃえば。(p17)


この箇所は、やや整理の仕方についていきにくい感があるのだが、問題の難しさを前にした論者自身の葛藤を率直に表しているのだと思う。
その発言におおむね共感しながら、ここでは、補足的に感想を書いておきたい。


それは、『先進国の人間は自由に移動できるのに、途上国の人間はできない』と言われているが、グローバル化労働市場の自由化)がもたらす途上国の労働者の移動の「自由」は、本当に「自由」の名に値するかどうか、ということである。
その移動が国際的な経済格差のなかで生じているものであるなら、当人がそれを「強いられた行動」と感じていなくても、「自由」な行動と呼べない可能性がある。
このことは、個人の選択と移動の自由を制限する口実に用いられてはならないが、必ず考慮されなければならない点だろう。つまり、国際的な(国内的でもある)経済格差の問題が、同時に問われ改善されなくてはいけない。
また、労働市場の自由化によってもたらされる、この移動の自由は、この「討議」のなかで用いられている言葉を使えば、「選別的受入れ」の枠の中での自由であろうから、この意味でも、それは現実には十全な自由ではないはずだ。
そして、経済格差の問題も、「選別」の問題も、やはり植民地時代以来の、日本という国のあり方、この世界の構造に関わる事柄である。
ぼくが前回のエントリーで書いたように、やはりこの観点から現状に対処することは、絶対必要なのである。


以上のように、この「討議」のなかで五十嵐が提示している考えの大筋を認めたうえで、ぼくは前回(12月7日)のエントリーを書いた。
それは、五十嵐が提起する、こうした意味合いでの「国内の労働環境の改善」という主張が、もし「多文化共生」という語に元来込められているはずの意図、そのわれわれにとってもっとも切実であるはずのメッセージを忘れるなら、その論としての大枠の正しさにも関わらず、国家的な思考の枠組みに容易に回収されてしまうだろうことを恐れるからだ。
「多文化共生」という理念が、もし行政や企業の側によって利用され歪んだ用いられ方をしているなら、それを歪ませているのは、ひとえに植民地時代の思考と制度から脱却できていないわれわれ日本人である。


だからこそ、われわれ自身の植民地時代と変らぬ「体質」を常に問うべきであると、前回書いた。
このような戒めは、五十嵐に向けられているという以上に、書いているぼく自身に向けられたものであることは、言うまでもないだろう。