橋下発言と日本の性差別

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130516/waf13051611240010-n1.htm

 日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は15日夜、米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の司令官に米兵の性的欲求の対応策として風俗業の活用を進言したことに関し、記者団から市職員のわいせつ事件の抑止対策として風俗業の活用が有効か問われ、「僕は(有効策に)なり得ると思う」との見解を示した。

 橋下氏は「何の罪もない人のところに行くくらいだったら、認められている範囲のところでちゃんとしなさいよ、というのが本来のアドバイス」と述べた。


すべて性労働を消費する人は、それが法的に認められたものであろうとなかろうと、他人の性的身体を商品として扱って自分の欲望を満たしているという点で、倫理的には何がしか不正義であることを免れないはずである。しかもそれが、社会全体の性差別や階層差別の構造のなかでなされている「消費」なのであれば、なおさらだ。
だがもちろん、不正義を生きているのは、別に性労働(合法的には「風俗業」)を消費・利用してる人たちだけではない。すべて生きている人間は、何がしか不正義をなしながら生きている。残念ながら、それが現実だ。
だがだからこそ、それを前提にして、その不正義を無くすという目標に向かって進むのが、人間の社会というものであり、「慰安婦」制度のような明らかな不正義を「必要だった」というような物言いで正当化する橋下発言は、社会に対する破壊的行為だと、前回書いたのである。


人間社会のもつべき方向に対するこの破壊は、現在においては、資本制経済の論理の中への、生の徹底的な縮減という思想のもとに行なわれている。いわゆる「新自由主義」の政治とイデオロギーだ。
政治家橋下徹に顕著に見られる、この破壊の思想のこの国における形態を、如実に示していると思ったのが、冒頭に掲げた記事なのだ。


15日夜の発言を伝えた記事だが、これを読んだとき、まだこんなことを平然と言っているのかと、あらためて唖然とした。
ここでは、性労働をする人の生は、犯罪行為の代替であるような攻撃的な性欲の捌け口(処理先)にされて当然であるような、まったくの「道具」として考えられている。そうした暴力にさらされることが当然である存在として。
人間の生と性的身体は、金銭による交換以外の価値を認められず、金さえ払えば(そして合法でさえあれば)、どんな扱いを受けても構わないようなものと決め付けられているのである。
僕はここに、今回(に限らないが)の一連の橋下発言がもつ差別性・反人道性の根幹を見る思いがした。


慰安婦」制度は、それ自体反人道的な蛮行なので、それを利用することによって兵士の性犯罪が減少するなどということは、そうした実証のあるなしに関わらず、成り立つはずのない理屈だといえる。この「利用」自体が国家による大量レイプの一環をなすものなのだから。
一方、「合法的」とされる現在の風俗業に関してはどうか?
ここでも、「犯罪発生」と「風俗業利用」との間に何らかの関連があるのか、その「利用」によって性犯罪が減少したかしなかったか、というようなことが問題ではないのだ。
例えば「性犯罪を抑止する」という目的のための手段として、性労働(「風俗業」)を利用するなどということは、それ自体が人格否定の反人道的発想である。
これは、その「効果」のあるなしに関わらないし、またその性労働がその国の法律で合法かどうかということとも全く関係がない。
性労働する人の生と身体の全てを、金銭による交換に還元できるもの、要するに全くの商品(物)であると決め付け、それを「犯罪抑止」というような目的のための手段・道具として使用することが許されると考える、その発想自体が、人間を否定するものだというのである。


この愚かな橋下の発言に対する確かな反論は、下の記事の中に語られている。
http://exdroid.jp/d/56672/


『わたしたちの仕事は性犯罪の代用品じゃありません』という、この風俗業の女性の発言が全てだろう。
そう言えるのは、人間の生や、性欲や、関係性は、それらがたとえ性労働や商行為に関わってある場合であっても、決して「攻撃性」にも「資本主義の論理」にも還元されるものではないという、橋下がまったく知らない事実を、この人は知っているからだ。
言い換えれば、人間の生と身体は、なんらかの目的(たとえそれが社会や国家であっても)のための手段であることに還元されて考えられるべきではないということを、この人は知ってるのである。


さらに、上の橋下の発言についてあらためて考えると、そこで「道具」あるいは「商品」に還元されるようなものとして考えられ、決め付けられているのは、消費される女性の生と性的身体だけではない、ということに気づく。
そこでは男性の側の生存と性欲・身体も、「攻撃的」なもの、他人の存在を支配や搾取や略奪の対象としてだけ扱うような「主体」として規定され、そうあるべきだと決め付けられている。
橋下自身が、そういう価値観を深く抱いてるのかどうか、彼を個人的に知らない僕に断定することは出来ないが、ともかく彼は公人として、このような思想を当り前のように語り、人々に押し付けているというのが、実態なのだ。
そこでは、人の性的な関係性は、基本的には、「攻撃する(奪う)性」「支配する性」と、「攻撃される性」「支配される性」との二項関係に縮減されて規定され、その規定を内面化して生きることが社会的に「正しい」ことだと強調されているのである。
われわれの生存と性的身体は、そのように縮減されて物のように規定された上で、企業社会や、それと相補的である国家の論理に適合するように操作されていく、ということだろう。
「道具」と考えられ扱われているのは、女性の身体だけではなく、「支配する側」としての男性の身体も、また同様に捉えられているのである。


ここでは、こうした性的身体や性的関係性についての捉え方が、「慰安婦」制度を大規模に実行したこの国の体質と深く結びついたものでもあり、そのことが橋下その他の一連の差別的な言動を通して明らかにされているのだということを、あらためて強調しておきたい。
橋下の差別的・攻撃的な発言が、これは今回に限らないが、政治家たちだけでなく、社会全体においてもなんとなく容認され、ときには支持されてしまうということは、僕ら自身がこういう国の支配の性質のようなものを、深く内面化させられてしまっている、ということ以外を意味しないだろう。
特に、このような発言とその容認が、朝鮮半島出身の、しかも植民地支配と戦争の時代を体験した女性たちに関して(対して)なされる時、そこには、この国の古代以来の歴史のなかに存在し、特に近現代史においてはそれが強調されて極めて重大な役割を果たした、「支配される対象」「奪われる対象」としての「朝鮮」像というものが、性差別の論理と二重映しのように立ち現われていると感じざるをえない。


古来、このような表象としての「朝鮮」像というものが、大衆に向かって喚起されるのは、軍事的な行動(侵略)が企図されたり、対象に対する集団的な攻撃性を動員する必要を権力層が感じた時である。
そのように「奪われる」べき対象の像が明確にされることで、「攻撃する」ものとしての「日本=男」という主体像もまた明確にされ、人々に内面化され、そして動員が容易に行なわれることになる。
安倍政権が企図する軍事化はもちろんだが、同時に現在では、他国との「経済競争」という表象に向かって(というのは、そこでの基本単位は実は単純に国民国家であるとも限らないのだから)、こうした大衆の操作が行なわれ、そのことが国家の支配体制の強化に貢献していくという構図になっているのだ。
「朝鮮」や「女性」を、奪われ攻撃され支配されるべき対象として規定し、それに対して「日本」や「男性」を、奪い攻撃し支配するべき主体として規定し決め付ける、性差別的にして同時に民族差別的でもあるような、日本の特殊的な支配の仕掛けが強固に存続してきたことは、この国が歴史のなかで身につけてきた軍事主義的なイデオロギーを根本のところで脱していないことを示していると思うのだが、現在の状況は、グローバル化新自由主義的な経済体制への従属的適応(それによる支配体制の生き残り)が企図されるなかで、この根深い体質が半ばは強迫的、半ばは意図的に持ち出され、社会全体を覆おうとしていると言えるだろう。


僕らの生と性、それに他人との関係性は、今また「慰安婦」が生み出された時代と同じ、軍事主義的な論理の支配の下に呑み込まれつつあるのだ。
一連の橋下や差別主義者たちの発言に怒りを向けることは、ただ彼らだけを断罪することであってはならない。
それは、この断罪を通して、この国を再び覆いつつある軍事主義的な論理の支配に立ち向かい、自らの生と身体を根深い差別的なイデオロギーから全面的に解放しようとする実践に結びつくものでなければならないし、同時にそのことは、「隣人」たちとの関係性を差別と暴力の構造とは無縁なものとして真に築き上げる努力の端緒であるべきなのだ。
そうした努力だけが、社会を構築しようとする人間の営みと呼ばれるに値するのであって、橋下の言葉が現わしているような現代世界の破壊の力に対抗するには、その努力の価値を信じなければならないであろう。
『わたしたちの仕事は性犯罪の代用品じゃありません』という言葉のなかには、少なくともそれを信じ始めるための、ひとつの糸口があるように思う。