鶴橋の排外デモ・水路を開く者

自分は行けなかったので、詳細が分からないのだが、24日日曜日に、大阪の鶴橋で在特会によるかなりの規模(100人ぐらいという説もあるが、もっと多かったのかも)の排外デモがあり、それに対する有志による抗議の行動も行われたそうだ。
抗議行動に参加した方たちには、心から賞賛とお礼の言葉を送りたい。


この日のデモでは、「朝鮮人」という言葉が大声で連呼され、ゴキブリ殺せとか、死ねとかいうような絶叫がそれに重ねて繰り返されてたらしい。
ヘイトスピーチとか言葉の暴力といった言い方さえふさわしくないような、直接的な憎悪と脅迫の撒き散らしである。
最近は東京の新大久保でも、同様の在特会など排外主義者によるデモが、毎週だか毎月だか行われていて、やはり「朝鮮人を殺せ」だとか「ガス室に送れ」だのというシュプレヒコールやプラカードが掲げられ、コリアタウンの営業にも大きな支障が出ていると聞いていたが、東京に比べるとこうした動きが比較的小規模と言われていた大阪も、ついにこんな状況になったのかと、愕然としている。
こうした、海外なら人種差別禁止の観点からとても許可されなかったり、激しい対抗運動にあって容易に広がらないであろうようなデモが、今の日本社会では、こうして堂々と、それも在日など朝鮮人、コリアンの人たちが多いとされる町の真ん中で頻繁に行われている。まさしく、末期的と呼ぶしかないような社会のありさまだ。


警察は、こうした右翼によるデモではいつものことながら、どんなに悪質なものであっても許可を出さなかったり、差別の暴言やプラカードを禁じるというようなことはなく、ただデモの周りを囲んで歩いてるだけのようである。
東京のデモでは、韓国料理店の看板が道にはみ出してるといちゃもんをつけて嫌がらせをするデモ参加者の姿を映像に収めようとした抗議行動側の人の方が逮捕されそうになった、という理不尽な話も聞いたが、日本の警察であれば当然するであろうような酷い振る舞いだ。
なにしろ、こうしたデモを、差別(特に朝鮮人差別)を理由にして禁止してしまえば、「暴力の脅威から守ってやる」ことを口実にした朝鮮・韓国の人たちに対する管理も出来なくなるし、それ以上に朝鮮学校への排除的な政策や、朝鮮総連への公然たる政治弾圧など、自分たちがやっていることとの整合性もとれないことになるのだから、法による差別デモ、差別表現の規制など、日本の公権力が本気で考えるわけがない。
何より、朝鮮人や、「法や人権の外」と規定した在日外国人たちに対して、非道な合法的暴力を現実に行使しているのは、在特会メンバーではなくて、警察や行政自身なのである。


それはそれとして、こうした悪質な差別的・暴力的デモが、社会の中で黙認されてるということは、たとえば、ひどい暴力的な行為が通勤電車の中で行われてたり、街中で寒さか飢えか疲労のためにホームレスの人が倒れて動かなくなってるのを見ても、何事もなかったかのように、見ないふりをして通り過ぎるのが当り前みたいになってる、僕らの日常の、それは延長された姿なのかもしれない、とも思う。
他人に振るわれる有形・無形の暴力、ましてやそれが、国家権力の意向とか、力の強い凶暴な者たちの主張に沿った、弱い立場の人たちに対する差別的な暴力であるならばなおさら、見なかったこと、見はしたが自分には責任も縁もない事柄だと心に封をして、通り過ぎてしまうのが当り前のようになってるのが、この社会の常態であり、そのように振舞うべきだという同調圧力が、それ自体も暴力的な勢いで日増しに強まっているのを、ここ何年か実感してきた


しかも悪いことに、朝鮮人への民族的な差別感情というものは、日本にはとくに植民地支配の時代から一貫して国家と社会の底に流れているものではあったが、近年では、周辺国、とりわけ朝鮮という国との緊張関係の印象を強めて、それを政治的に利用したいという政治家や官僚たちの思惑が大きく作用し、制度がこれを抑えるどころか逆に増長させ、その膨らんだ差別的な世論によって今度は政治の方が、より強硬な差別的政策の実行へと追い込まれてしまう、というような悪循環に陥っている感がある。
一言で言えば、このヘイトスピーチや集団的な憎悪の感情は、国の差別的政策や戦争への意志と密接に結びついているだけに、いっそう危険なものになっているのだ。


それだけに、東京や大阪で行われているような現場でのカウンターアクション、排外主義者の暴言や行動を許さず、それに反対するメッセージとアクションを街頭で掲げるという行為こそ重要であることは、あらためて言うまでもない。そうした、一人一人の行動だけが、この社会を変えていく起点になるはずである。
だがそのことを認めた上で、ここでは次のことだけは言っておきたい。


「殺せ」だとか、これほどはっきりした民族的憎悪と暴力に満ちた言葉が、ネット上であればいざしらず、白昼に町の真ん中で繰り返し叫ばれるというようなことは、ごく最近までなかったことだと思う。実際、去年の11月頃だったと思うが、大阪市役所の横に当時張られていた、瓦礫焼却に反対し橋下市政を監視するという趣旨のテントに、在特会が大挙して押しかけたときにも、言ってる事の大半は朝鮮人に対する空虚なヘイトスピーチだったが、「殺せ」というような表現は、ちょっと僕の記憶にはない。
こうした変化は、そのような表現を町中で顔をさらして堂々と行うことが、社会的に許容されると彼らが考えるようになったことを意味するだろう。
こうした差別主義者の暴言や行動は、対象こそ違え、以前から行われていたものであり、だから特定の外国の(敵対的な)政策や行動が原因でこうしたデモが起きてるのだと考えるべきはないという風にも言われ、実際その通りだと思うが、それならなおさら、今なぜ彼ら、彼女ら(いつもながら、女性のデモ参加者も少なくなかったそうだ。まあそのこと自体は当り前だろうが。)の憎悪や差別感情が、他ならぬ「朝鮮人」という存在に向けられているのかということは考えねばならない。
その理由はただひとつ、そこに向かって水路が開かれているからだ。


つまり、いま起きている現象の背景には、間違いなく安倍政権成立前後からの、極右的な政策の提言や遂行と、それを無批判に、ときにはきわめて好意的に報道するマスコミの態度といったものがあるに違いないのである。
それが言わば、こうした排外主義の行動に対する目標の指示と、ゴーサインになっている。
彼らは権力によって攻撃することを認可され、命じられた対象にだけ攻撃を向けるのであり、自分の情念や差別感情を、そこに向かって心置きなくぶちまけるのである。


もちろん遡れば、このような排外主義とヘイトスピーチが蔓延する背景には、過去の過ちを認めず植民地主義的な体制を維持し続けようとする日本の政府や行政の体質とか、グローバル化新自由主義のさなかで掻き立てられる一方の人々の不安や憤懣、憎悪といったことがあるであろう。それらは、昨日今日の問題ではない。
だが、そのような原因によって醸成されてきた民族的差別感情が、ここに来てこのように公然化したということは、現実の政治権力の存在を抜きにしては、説明の出来ない事柄なのだ。


排外デモやヘイトスピーチ、差別行為に対する抗議行動ほど尊いものはない。一人一人が、この日のように勇気をもって行動し、差別を決して許さないということを態度で明確に示すことほど、この社会を変えるために実効性のあること、必要であることは、繰り返すが、他にないであろう。
だが同時に、今の社会のこうしたあり様は、たとえば排外デモというような現象に対処するだけでは、いかんともしがたいところがある。
これは根本的には、政治権力の問題なのだ。
今のところ、こうしたデモの参加者達は、「殺せ」というような言葉を連呼はするものの、欧米の極右とは違って、それらの言葉を行動に移すようなことはしていないようだが、その理由は、支配体制や警察権力に歯向かうようなことを、彼らはあえてやりたがらないということばかりではない。自分たちが行動に移さなくても、政府や行政がちゃんと代行してくれるだろうことを、彼らは知っているからである。
排外主義者は、排外主義者自身の魂を含めたわれわれ全員にとっての敵であるが、それは敵の総体のなかのほんの一部にすぎない。
彼ら(彼女ら)は最悪な奴らだと僕は思うが、彼らを煽ったり容認したりして操っている、政治家や警察や資本家達は、その何万倍も悪く、強大なのだ。


こうした排外デモを社会から根絶するには、日本も(渋々ながら)批准している国際人権規約に基づいて、人種差別を禁止する法律を制定する以外に決め手がないだろうと僕も思うが、今のような政治の状況が続く限り、それは難しいだろう。
これまで抑圧し続けてきた朝鮮人や、差別に苦しむ他の多くの人たちの首にかけた手を、みすみす緩めてしまうような拘束を、この国の権力者達が自分の手に施すとは考えにくいからである。それを行うなら、社会全体の真の民主化が進み、自分たちの権益がどれほど危くなるかということを、彼らは熟知している。
だから実際には、排外デモやヘイトスピーチ、また朝鮮学校の無償化からの排除とか、生活保護受給者へのバッシングとか、野宿者への排除や襲撃とか、そういった差別と不正義の現象に対して地道に抵抗しながら、法制度の改革につながるような社会のあり方の変容ということを目指していく他はない。
それでも、そうした個々の現象を解消させることが、差別の大元である国と社会の政治権力に対抗的に直面することの回避の隠れ蓑のようになってしまっては、やはりいけないと思うのである。
端的に言うなら、排外デモに反対してる人が、一方で極右的な政権による政治を支持したり、差別の継続の上に成り立っているこの国や社会のあり方に批判を向けないようでは、その効果はやはり限定的なものにとどまるだろう、と言うしかない。
排外デモがかりに姿を消したとしても、その代わりに、改憲がなされて、日本による戦争が再び行われるようであっては、何にもならないと僕は思う。