朝鮮学校についてメディアが伝えるべきこと

先日、大阪市内の朝鮮学校の授業内容などを取材した特集が、NHKの関西ローカルで放映されることがあり、その録画を見た。


それによると、この学校では、日本で暮らす子どもたちのために日本の民主主義制度の仕組や意義を教える授業を行っているようである。
だが、今の現状では、この生徒たちはきっと、日本の民主主義の意義を教える授業内容と、実際にその「民主主義」の仕組によって選ばれた政治家たちによって自分たちが不当に苦しい立場に置かれているという現実との食い違いに、またその政治家たちを選んで支持している「民主主義社会」の住人たち(一部であっても)のひどい差別性との食い違いにも、やがては気づき、何を信じたらいいものやら悩むことになるだろう。
まったく重ね重ね気の毒なことだ。


同じ大阪に住む人間としては、民主主義の正しい仕組とその意義についての授業は、むしろ多くの日本の政治家や有権者、とりわけ橋下徹大阪市長や「維新」の議員たちにこそ、「今一番受けてもらいたい授業」だと思う。


それはともかく、朝鮮学校に関しては、産経のような悪質なメディアによる報道は論外だが、比較的良心的なものであっても、「朝鮮学校は、それほど偏向していたり特殊ではない」とか「自らこれほど変わろうとしているのだ」という点を強調したものがほとんどだ(ほとんどと言っても、そんな報道自体希少だが)。
そうした番組や記事は、もちろん氾濫している悪意に満ちた報道よりは、ずっと良いかもしれない。
だが、それらの報道からは、「開かれて」いたり「変わろうとしている」朝鮮学校の姿だけを映し出して、その学校と人々とがこの日本社会のなかで置かれている状況の深刻さを、何か表層的にだけしか報じていないという印象を受ける。
政治的な理由による「無償化」からの除外や、自治体による補助金の停止といった政治的な排除と圧迫、差別的な市民たちによって加えられる行動・言動の暴力、そうした朝鮮学校の生徒たちが置かれている酷い状況を作り出しているのは、当のわれわれ日本の有権者であり、日本社会のマジョリティー市民の責任に他ならないというのに、そのことに光が当てられることはなく、ただ朝鮮学校の現状が不遇さの中での「好ましい」変化のように描かれるだけである。


まるで、こうした困難な状況は朝鮮学校の生徒たちが不幸にしてたまたま蒙っている災厄のようなもの、それを見ている日本の視聴者・読者たちの責任とは関わりを持たない自然現象のような出来事であるかのようだ。
これらの差別や暴力が、すべて朝鮮人たちに責任や理由があるかのように言う極右的な論調ほど露骨ではないとはいえ、そこには歴史や社会の人権状況に対する主体的な責任を放棄しようとする、メディアの作り手と受け手(視聴者、市民たち)との共犯意識が透けて見えていると、思われても仕方がないだろう。
この無責任さが、全ての差別や排除、暴力の震源だということを、差別を受け続けてきた人たちはよく知っているはずである。


それに、こういうこともある。
上記の番組で紹介されていたような、朝鮮学校の「開かれた」あるいは「自己変革的な」取り組みというものは、元来は日本社会や国際環境の動向とは別個に、自分たち自身の意志によって選ばれたものだと思う。
だが不幸にして今の日本社会の差別的な現実の中では、こうした元来自主的な取り組みは、無用の困難さを背負わされることになっているというのが実情だろう。以前にも書いたことだが、日本の差別的な政策や世論は、こうした朝鮮学校の自主的な発展のあり方を阻害するという意味でも、不当な暴力性に満ちていると言うべきなのだ。
子どもたちが置かれている状況の不当さが、誰によってもたらされた、どういう不当さであるかという事実には目を向けず、ただ朝鮮学校の「変化」だけを一見中立的にとりあげる報道によっては、こうした努力や困難の本質というものも見えようはずはないのである。


ここでは、国際情勢や日本政府・社会・マスコミのあり方の不正義と思われるものにはあえて言及しないが、大きく譲って(歴史的経緯や国際政治の問題をひとまず括弧に入れるとして)、最近生じている日朝両国間と日本社会内部の「政治的緊張」なるものが、かりに避けがたい自然発生的なものであったとしても、その「緊張」のしわ寄せが、生徒たちの身の危険や、不当な政策、マスコミ・世論のヘイトスピーチ的な言説という形で、もっとも弱い立場の子どもたちに差し向けられるという、この社会の腐ったあり方こそが、報道され、人々の変革への意志の対象となるべきなのである。
いったい、もし朝鮮学校が日本人にとって、「開かれて」いるとか「変わろうとしている」とか「偏向してない」とかとは思えないような存在であるならば、それは差別や排除や脅迫や偏見にさらされても当然なのか?
それを当然だとする考え方自体が、とてつもなく差別的であり植民地主義的なのではないか。
日本のメディアが、日本の大多数の視聴者・読者に向って問うべきであるのは、朝鮮学校の「開かれた」姿以前に、まず自分たち(メディアとその受け手)自身の、閉じられた意識の在り方だろう。
そうすることによって、「民主主義社会」では政治のあり方を決める主役とされている有権者や納税者たちに、よき変革への意志を持ってもらうことこそ、メディアの使命というものではないのか?


もう少し、自分の思っていることをはっきり書こう。
政治的な理由を名目とした、「無償化」からの除外や補助金の停止という所業は、無論それ自体不当なことである。
だが実のところ、そうした政策は、一貫して続いてきた日本の国家と社会の植民地主義的な体質を正当化・公然化することを(あえて「北朝鮮報道」風に表現すれば)「狙い」としていることは明らかだ。
「拉致」や「ミサイル」などを口実として、政治家たちも、有権者たちのなかの悪質な部分も、この「狙い」を実現しようとしているのであり、朝鮮学校の生徒たちは、いわばその生贄のようなものにされていると言えるだろう。
今の日本の「政治」、「民主主義」とは、概ねそのようなものに墜しているということが、残念ながら現実なのである。
その自分たちの社会の差別的な現実、そこで犠牲のようにされている人たちの実情に向き合わせ、現状の変革への自覚をうながすということが、民主主義国のメディアの役割ではないのか?


伝えられ、論じられるべき主要なものは、朝鮮学校の「美質」や「前向きさ」ではなく、日本社会の「醜さ」であり、その「醜さ」に直面し乗り越えてこそわれわれが共に形成しうるはずの、未来の社会のあり方のはずである。