カウンター行動と朝鮮学校排除

11月4日、京都で、在特会などによるヘイトデモが予定され、それへのカウンター行動が呼びかけられていたので駆け付けた。
この日は京都でのカウンター行動としては最大規模の人たちが参加したとのことで、大変熱気のある行動だったと思う。


この前日、神戸であった同様の行動にも出向いたのだが、そちらは、大量の警官に規制されながらもカウンターの人たちは懸命に頑張っていたが、人数はあまり多くなかったと思う。
僕自身たまにしか参加しないので、書きにくいのだが、最近、大阪など関西のカウンター行動ではあまり人が集まらないという話をよく聞いていて、この日もどうなることかと不安を抱きながら現地に行ったが、着いてみると多くの人が集まって熱気に満ちた雰囲気であり、僕がこういうのも何だが、たいへん心強かった。
それで、河原町と烏丸の交差点で、夕方までみんなに混じって行動した。
排外主義のデモに対して、許してはいけないという気持ちであれだけの人たちが集まって声をあげたことで、差別や暴力の蔓延のなかで孤立感を抱いたり、危機的な思いを抱いている人たちが、少しでも気持ちが楽になることがあれば良いと思う。
こうした行動は、こういう酷い社会の状態を作り出してしまった者の一人として、なして当然であることの、少なくとも一つだろう。
同時に、このようなデモや行為、言動の蔓延が一つの原因となり、社会の崩壊、あるいは極右化が進行して、最悪の状態に陥っていくことは、何としても阻止しなければならない。
そうした切迫した気持ちが、普段からカウンター行動に取り組んでいる人たちや、あの場に足を運んだり、関心を向けた沢山の人たちに、きっと共有されているはずだと思う。


このところ、関西ではあまり人が集まらないとされるなかで、この京都の行動では、なぜこんなに沢山の人が来たのか。
関わりの浅い僕なりに考えてみると、やはりこのヘイトデモのそもそもの原因となった09年の京都の朝鮮学校襲撃事件の衝撃の記憶と、それに対して先ごろ出された地裁の有罪判決とその報道への関心というものがあり、この判決に不服を唱える趣旨で行われるというこの日のデモに対しては、特に許せないという気持ちを持つ人が多かったのであろう。
大阪でも、ネットで話題になった「鶴橋大虐殺」というヘイトスピーチのあった直後のカウンター行動では、相当な人数の人が鶴橋に結集するということがあった。
この二つのケースでは、いずれも、どこの誰が攻撃されているのかというイメージが、比較的鮮明である。このことは、人間を動かす感情的要素としては、かなり大きいと思う。言い換えれば、その被害(者)のイメージがあまり鮮明でない場合には、これほどの人は集まりにくいのではないか?
ついでに言えば、これはいくらなんでも酷いという社会総体の同意というものが、他の場合よりも調達されていた。今回の地裁の判決に関しても、多くのマスコミは支持する論調が強かったし、政治家たちも(渋々であっても)ヘイト側を非難していたと思う。つまり、特定の政治的立場を越えて、一般市民の良識であるとか、人間としての良心であるとか、国民なり地域住民なりとしての義務感やアイデンティティであるとか、さまざまな動機から行動のために結集しやすい条件が出来ていたことは事実だと思う。


もちろんそうしたことは、けっして悪いことではない。
素朴な感情から、人々が差別を非難し、攻撃される他人(弱者・少数者)を守るために立ち上がり、声をあげる。それは、より良い社会を作っていくために、もっとも基本的なことと言えるのではないか。
たとえば、原発事故以後の人々の動き、直後に官邸前を埋めた大規模なデモや、再稼働反対デモ、大飯原発ゲート前の阻止行動、あるいは福島や東北などからの避難と、それを支援する動きや、瓦礫焼却に反対する運動などを見ても、いずれも人々の「素朴な感情」から発した集団行動である。
その感情のなかには、「エゴイズム」とか「感情的」とか「過激」とか「認識不足」とか、色々に揶揄されたり非難されたものがあり、そこに改善の余地のあるものもあっただろうが(実際、人々の真摯な努力により、多くの発展があった)、いずれにせよ、人々は理屈や抑制を越えて、そこで集団的な行動、意思表示を行ったのだ。
どのような立場に立つ人も、こうした素朴な感情や動機に発する集団的な行動の意義を、あらためて見直すべき時期に来ているのではないかと思う(大規模なデモや行動を主催する人たちの中にも、参加した人々の動きを過度に統制したり、意見の違う者を強引に排除する傾向が見られるのは、とても残念だ)。


だが同時に、排外主義者のデモのようなものを、たんに日本の社会全体にとっての異物のように見るわけにはいかず、そこには政治権力や、僕たち自身をも含めた社会の差別性や歪みの投影という側面があることから、目を背けてはならないと思う。
一例として、今回のデモの発端にもなった朝鮮学校に関して言えば、こういう行政の動きがある。
http://news.kanaloco.jp/editorial/article/1311060001/


朝鮮学校に対する行政側からの排除は、国による「無償化」対象からの除外をはじめ、各自治体からの補助金の打ち切りや中断など全国に広がっているものだが、この記事にあるような、「国際情勢」を理由にした公然たる政治的排除、まさしく「敵視政策」のごとき動きが出てきていることは、いっそう重大だ。上の記事を読むと、市側は、「市民の理解が得られない」ということを口実にしているようだが、これは逆にいえば、「理解する」ような住民は、「敵」に内通する者にも等しいということにもなろう。
この国では、いわば公権力の側が、マイノリティを「敵」として認定している。そのことが、弱い立場の人たちへの攻撃欲望を抱いた者たちに、いわば「ゴーサイン」を出す結果になっているのである。
マスコミや、差別・排除の不当さに声をあげない社会の体質が、それを後押ししていることも、もちろん見逃せない。
とりわけ朝鮮学校の場合には、一連の排除の動き以前から、元来日本の政治や社会から排除される面が強かったということも忘れてはいけない。
朝鮮学校の存在とその歴史を考え、そこに向けられる差別や攻撃の原因を探っていくと、やがては日本という国に残存する植民地主義的な体質や、それと深く結びついた私たちの社会といったものに、直面せざるをえないはずなのだ。


私たちは、排外主義者によるマイノリティへの攻撃に対抗して行動する場合にも、結局は何(誰)に対して、何(誰)を守るために行動するのかを、それぞれが明確にしていくべきだと思う。
それは、初発の(最も大事な)「素朴な感情」を、より明確にし、自分と他者とを本当につなぐ力へと転換していく作業だといってもいい。
行動のなかで行われるその問い詰めや議論こそが、排外主義や極右化に対抗して築かれるべき、これからの私たちの社会の性格を決めていくだろう。
そのためにはまず、そうした抵抗と対話の場(それは勿論、カウンター行動だけに限らない)へ、より多くの人たちが出向く必要があるだろう。