欺瞞に満ちた安倍答弁

安倍首相は、先の猪瀬知事のトルコに関する問題発言と同様に、排外デモやネットを含むヘイトスピーチに関しても、それを支持の拡大ばかりでなく、統制強化のための手段としても利用したいらしい。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130507-OYT1T00902.htm?from=main1


http://www.asahi.com/politics/update/0507/TKY201305070355.html?ref=com_rnavi_arank



改憲への動きは無論のこと、原発推進や閣僚の靖国参拝朝鮮学校排除などの差別的な政策など、どこを見ても、安倍政権の政治そのものが、国家に従わない者の存在と生存を許さないという、根本的な差別性・否定性を社会に蔓延させる最大の力となっていることは明らかだ。
排外デモが、ネットの上から「路上」へと登場したことは、その大きな現象の、ほんの派生的な一部にすぎない。
この全体を遂行しながら、目につき易い一部だけを切り離すポーズを示すことは、欺瞞であるばかりでなく、統制的な権力の強化を図る狙いを持つものと考えるしかない。


この政権が目指しているのは、決して単なる国民統合いうようなことではなく、国家の論理に従わない者、従えない者は、存在自体を許さないという、統制の思想である。
朝鮮学校排除などの政策に具体的にそれが示されているばかりでなく、自民党による改憲案がすでにそのような中味を持っているのだから、このような理解が間違っている可能性はまずないだろう。
「指導者」である自分のことば一つで、差別表現を行う者たちが、その暴力の手を緩めたり、逆に特定の対象に向かってその炎を燃え上がらせたりするような、強権的で脅迫的(つまりファシズム的)な社会体制の構築の欲望が、この国会での発言に込められていると感じる。
差別的暴力は、ここでは相対的に「望ましくない」ものとして自制が求められているだけなので、指導者が「国家の敵」と明示するような対象に対しては、容赦なく振り向けられる可能性が暗示されている。


ヘイトスピーチのような差別的暴力は、「和を重んじ」るというような、理想的な国民像の称揚の題材として、やんわりと自制が求められるべきものなどではない。
それは、たんに非難され否定されるべき行為であり、その否定を通して国全体の差別的なあり方の反省と改善が行なわれる起点とされるべきものであろう。それ以外に、有効な改善策などはない。
安倍首相の発言は、まるで差別や排外的・排他的な思考を、公認性にしようとするもののように思える。差別の感情や表現を、すっかり国家の力の一部として取り込み、それを無くしていくのではなく、統治(統制)の手段として磨き上げようという意図である。
こうした暴力を本当に根絶しようと思うのであれば、政権は、改憲を含めたその極右的な政策の一切をあらためるべきであり、端的には、安倍氏が自ら首相の地位を退くべきなのだ。