「称する」ことをやめた国

情報収集衛星打ち上げ 4基の監視体制実現へ、H2A16回連続成功
http://sankei.jp.msn.com/science/news/130127/scn13012714040000-n1.htm


日本のロケット打ち上げの成功を伝える上の記事のなかの「事実上の偵察衛星」という表現を見て、何か腑に落ちたような気がした。


先に朝鮮が発射したロケットに関して、日本のメディアではいまだに「人口衛星と称する事実上のミサイル」という長ったらしい定型句が用いられているが、これは、奇妙な表現である。
あの実験が、本当に軍事だけを目的にした、あるいはそれを実際上の目的とした行為であると考え、その脅威を主張したいのならば、ただ「ミサイル」とだけ書けば良さそうなものである。なぜ、「人口衛星と称する事実上の」などという、くどくどした形容を付する必要があるのか?不思議に思っていたものだ。
だが、この記事を読んで気づいたのは、あの定型句の繁用が、日本自身があからさまに軍事を重視する極右的な国家へと転換するための、巧妙な布石だったということである。


あらためて考えてみると、「・・と称する事実上の」という言い方は、それが軍事的な脅威であるという「事実」に加えて、「事実を隠し、我々を偽るような卑劣な国」として朝鮮を貶めようとする表現だ。
だがそれは、たんなる誹謗ではなくて、相手側(敵)のこのネガティブな印象を強調することによって、「事実(本心)を隠さず、偽らない」という態度にこそ高い道義的価値がある、ということを印象付けることに真の目的があったのである。
軍事目的のものを「人工衛星(平和利用)」だと「称する」ような卑劣なあの国とは真逆に、今後の我が日本は、科学技術を軍事目的に用いているという「事実」を堂々と認め、軍事的にも大国への道を進んでいく。
こうして日本の軍事大国化、極右国家化は、「事実(本心)を隠さない」という道義的な価値を付与されて、正当化されるのである。
「・・と称する事実上の」という誹謗の表現は、結局のところ、自らのこの「開き直り」に道義的な装飾を与えて正当化するための方策だったのだ。


安倍政権とそれを支持する有権者たちは、今後、もはや(宇宙や原子力の)「平和利用」だとか、「戦争の放棄」だとか、「人権の尊重」だとか「称する」ことをやめて、自らの欲望のままに突き進んでいきたいのだろう。
それは侵略や差別を含む歴史と構造のなかで積み上げてきた権益や、特権的な自己意識(国民意識、マジョリティ意識)に公然と固執するという、きわめて卑しい振舞いである。
そのように振舞うことの後ろめたさを払拭するために、そう振舞うことがかえって道義的な態度でもあるのだと強弁するために、あえて相手を誹謗する表現を繁用したのだ。
差別とは元来、そうしたものなのかもしれない。差別したい他者への攻撃の裏側には、自らが鬱陶しく感じている束縛から解き放たれて、思いのままに振舞いたいという、(二重に)卑しい本心が隠されているものである。
日本の国家やマスメディア、そして大衆が流布させ、殊更らしく非難している朝鮮という国の像には、自らが欲望のままに突き進もうとする道を正当化したいという願望が込められている。それは、自分たちの行動が帯びている消しようのない道義的な不当さの意識を、他者に転移して押し付けることで、自己意識の潔白を守ろうとする姑息な心理の産物なのだ。


われわれが選択すべきなのは、自らの攻撃性や利己的な欲望を是認して閉じこもるのでなく、他者と共に倫理的に生きることの困難さを引き受けながら進むという道だ。
「平和」や「人権」というような言葉を、金科玉条のようにではなく、自らに課した束縛として手放さずに生きるということは、そういう困難な現実から逃避しないでいるために必要なことなのである。
極右的な政治は、困難な現実からの逃避と、それゆえの破滅以外を意味することはないのだ。