初めの一歩として

この東京新聞の社説は、先日批判を書いた朝日の社説とは雲泥の差であり、こういう真っ当な記事が今後さらに増えて多くの人たちの心を動かしていくことを望みたいと思う。
無償化見送り こんな時こそ太陽で
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013012602000109.html


ただ、やはり一言言い添えておきたいことがある。



もちろん、大新聞の社説というものは、社会全体、読者総体の考えや情緒を勘案して、説得的・効果的な立論や表現を選ぶということが、特に重要であるだろう。
今の日本社会の大勢を考えると、この記事のような論調が、最善のものなのかもしれない、とは思う。
だが、だからこそあえてはっきり書いておきたいのだが、朝鮮学校が無償化から排除されてはならないのは、あくまで当り前の話なのだ。
今回、ぼくが知る限りでは、日本の大新聞では初めて、東京新聞がこの当り前の意見を社説に載せてくれたことは、今の日本社会の差別的な状況においては見識と大きな勇気に基づくことであったに違いないと考えるから、心から敬意を表し、称賛する。
しかし例えばこの記事では、「根強い異論に配慮して」文科省が「条件をつけた」ということをある意味で肯定するかのような書き方がしてあるが、差別的な圧力や言論に配慮して政策の適用に条件をつけるなどということは、本当は言語道断なことだ。だがそうせざるをえないほどに、この国の差別的な力と体質は強固だという事実を、僕たちはここに読みとらなくてはいけない。


最後の部分には、『無償化がやがて朝鮮学校を地域に開かれた存在へと脱皮させる契機となるのではないか。北朝鮮に厳しい今こそ北風より太陽だ。』とある。
この二行目は、僕にはちょっと意味が分かりにくいので、ここでは一行目の方を問題にしよう。
僕が強調したいことは、何度も書いてきたと思うが、「開かれた存在」にならねばならないのは日本の国家と社会の方であり、そちらが無償化除外のような極端な差別政策に訴えてまで、その閉鎖的な体質を変えないでいる以上は、そうしたものである日本社会に適応するように朝鮮学校に「変わる」ことを求めるのは、本来間違った態度なのだということである。
朝鮮学校に、変わるべき部分があるとしても、それは朝鮮学校に関わる人たち自身の意志によって変わるべきなのであるし、実際、近年特に苛烈さを増している制度上の排除や右翼・政治家・マスコミなどによる攻撃がなければ、そうした変化が起きていた可能性は高かったと思う。
日本の側が今のような差別的な体質を変えないままなら、朝鮮学校にとって「変わる」かどうかという選択は、子供たちの人生を守るために欠かせないはずの何かを手放して「変わる」ことを選ぶか、それともそれを手放さないために排除によるありえないほどの不当な負担を引き受けるかの、苦渋に満ちた二者択一にならざるをえないのだ。
これは、まったく不当な二者択一である。
そんなものに悩まなくても、自分たちの道を(変わるにせよ変わらないにせよ)選び取って生きていく自由が全ての人にあるべきなのに、朝鮮学校の子どもや関係者たちには、政治的とされる理由によって、その自由が剥奪されているのだ。それを差別と呼び、非難するのである。


先に、朝鮮学校を無償化から排除しないことは、当り前のことだと書いた。
だが僕たちは、それがなされることさえ現実には大きな困難が予想されるとはいえ、決してこの当り前のことだけにとどまっていてはならない。
僕たちが真になすべきであることは、朝鮮学校に通う子どもたちや保護者、関係者の人たちをはじめ、その他全てのマイノリティーの人たちが、自分の意志で、元来無用な葛藤に苦しめられることなく、自分たちの生きていく道を選び進んでいけるような、そんな公正な社会に、この日本を作り変えていくことである。
朝鮮学校に「変わること」を促すのは、自分たちが変わることに幾らかでも成功してからにするのが当然であるし、そのための努力の初めの一歩として、この「無償化除外」という暴挙を、僕たちは許すべきでないのである。