戦争のための「和解」

28日に日韓両国政府の間で行なわれた「合意」と呼ばれるものですが、被害の当事者である元「慰安婦」の人たちをなおざりにして、国家・政権の都合だけを優先させた酷い決定だったと思います。


そもそも、当事者の思いも証言も無視したところで、闇雲に政府間で「最終的解決」の「合意」なるものが取り決められ、事後的に当事者にその承諾が強要されるようなものを、「和解」と呼ぶことなどできません。
それに、日本側が本当に反省の気持ちを持つならば、安倍首相や岸田外相は、みずから被害者の人たちの前に足を運んで謝罪することから始めなければなりませんが、取り決めの過程や、その後の言動・対応から見ても、そんなつもりは全くないのでしょう。
両国(とくに日本)の為政者にとっては、大事なのは、今回の「合意」を要請したアメリカ合衆国政府の意向や、選挙結果につながる国内世論の動向、そして国家同士の都合やメンツや思惑といったことだけであって、「慰安婦」にされた被害当事者の女性たちなどは、存在していないも同然か、または存在しても見ないですましておきたい存在に過ぎないのです。
福島や沖縄の人たちに対する態度、仮設住宅で暮らす東北の震災の被災者や、日本中の貧困世帯の人々に対する態度と同じものだといえます。それは、セウォル号の犠牲者の家族たちに対して見せた、韓国の政権の姿勢にも通じるものでしょう。苦しんでいる人間に対して、こうした態度をとることしかしない政治家たちを、私たちは選び支えているわけです。


今回の「合意」は、近現代史の悲劇・犯罪に関する「和解」ではなく、両政権の「手打ち」のようなものにすぎません。
歴史を忘れ、生身の存在としての自分自身を忘れようとする人々によって構成された大衆社会の支持によって、これらの政権は生み出されたわけですが、そうした社会の支持を確保するために自らがあえて作り出してきた国家主義的な雰囲気によってもたらされた、近年の両国間の「緊張」を(こうした「緊張」が、歴史の重みによってもたらされたものではなく、それを忘れたいという欲望によって生まれたものだという事は、ここで強調しておきます)、このへんでどうにか「手打ち」にして、アメリカ合衆国が要請する軍事的協力体制、いわば「国境を越えた挙国一致体制」のようなものを作り上げようとする、傲慢にして狡猾な意志を、私はここに感じるのです。
この目論見が上首尾にいくかどうかは分かりませんが、ともかく両国政府は、自らの権力基盤というべきアメリカ合衆国の意向に沿うために、あらゆる手段を使って、この「国際的挙国一致体制」(それは表向きは「和解」などと呼ばれるでしょう)の体面を取り繕おうとするはずです。
もちろん、そうすることが政権の安定と、戦争による金儲けにつながるという判断があるからです。アメリカ合衆国の求めているものが、「対テロ戦争」と自称される世界的な軍事戦略への、韓日両国のなお一層の取り込み(動員)にあることは明らかだからです。
日本に関していえば、今回の「合意」が、今年推し進められた戦争(安保)法制や、改憲への策動など、安倍政権・自民党の極右的な政策と、実際には同じベクトルを有するものだという事は、何度も強調しても足りません。
現状を見ていて最も恐ろしいのは、この「戦争のための和解」が、極右化や戦争法制には反対していた野党やリベラル系マスコミによっても、まんべんなく支持されているという事態です。
これは、政治と社会全体の翼賛化と呼ぶしかない状況だと思います。
怖ろしいことですが、来年は日本でも韓国でも、今回の「合意」に線にそった社会と世論の一元化、いわゆるリベラル(もしくは和解)勢力の、戦争体制への本格的取り込みが行われていくことでしょう。
アメリカ合衆国の軍事戦略のもと、改憲と軍事力強化へと突っ走る安倍政権に敵対する力は、もはやマスコミにも、全野党を含むリベラル勢力総体にも無いと考えるのが現実的でしょう。
弾圧と迎合の時代の、本格的な幕開けです。
1930年代は、いまやまったく違った見かけのもとに、回帰しつつあるのです。


それにしても、いま露呈しつつあるのは、被害当事者の苦悩と存在を否定し、人間が共に生きているという現実から目を背けつづけてきた、私たちの生を覆っている原理のようなものです(私たちは、こうした政治の話題に接するとき以外は、おおむねその原理に従って生きることを是としているのではないでしょうか?)。
そのようなあり方が、日韓両国の今の政治権力を生み出し、世界規模の戦争への本格的参入を容認しようとしているのです。
私たちがこのような「合意」のあり方を許さず、被害を受け続ける人たちの苦しみから目をそらさない精神を持ち続けることが、この欺瞞に満ちた政治の現実に対する抵抗の、最後の拠り所になるだろうと思います。