困難の最大の原因

きのうの記事を書いた時点では、選挙を考えて「凍結解除」を行わないことの言い訳に文科相が血迷った発言をしたという印象があったのだが、この官房長官の発言を見ると、政府として本気で無償化政策を政治の具として用いる考えのようだ。
あらためて、唖然とする。

http://www.asahi.com/politics/update/0209/TKY201102090153.html



政府が行おうとしているこの行為が、不正義なものであるだけでなく、一国の政治的な利益を考えてもまったく愚かな判断であることへの指摘は、すでに右派的な政治家の中からさえ出ている。

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1102090020/


だが言うまでもなく、この政策が政治的利益の観点からして仮に妥当であったとしても、民主主義や反差別を標榜する以上は、それは許されてはならないことである。
まして、今回の政府の言い分は何かと言うと、「無償化」の問題を、朝鮮半島の緊張という政治状況に結びつけ、両当事者の間で行われている話し合いの最中にしゃしゃり出て、緊張を煽るような形で介入する、その介入の道具として「無償化」という教育行政に属する事柄を利用しようというのである。
これは、差別や排除や教育権の侵害であるというだけでなく、軍事を含めた自国の勢力の(周辺地域への)拡張のために、子ども達を犠牲にしようということではないのか?


自民党の極右的な政権ならともかく、民主党政権にそこまでの確信は無いだろうと言われるかもしれないが、すでに沖縄の基地移設をめぐる問題でも明らかになったように、この政権は、この国の根っこにある暴力や搾取の構造に手をつけないままに、不特定多数の有権者の利益の確保を目指すポピュリズム的「改革」を行おうとする結果、少数者を犠牲にして国力の拡張を図る最悪の選択をする傾向がある*1
そのとき、克服されないままにきたその暴力や搾取の構造の実態が、自ずから露呈してしまうのだ。
それは、「アメリカに引きずられて」とか「日米韓という枠組みに縛られて」とか、言い訳の出来ることではないと思う。
朝鮮学校の無償化適用の問題について、元々は「人気とり」のための(適用対象としないための)方便として砲撃事件が持ち出されたのかも知れないが、今や事情は変わってしまい、逆に無償化の対象から朝鮮学校を除外するという行為をばねにして、朝鮮半島情勢に積極的に介入していこうとする政治の意図さえ感じられるのである。


さまざまな国際間の課題のなかでも、とりわけ朝鮮半島の問題への介入ということは、この国の本質に関わっていて、いまだにわれわれがそれを克服できていない事柄だ。
日本は歴史上、国家の力が外に向かう時は、決まって朝鮮を憎悪と暴力の対象にしてきたが、この暴力は、国家に同化したわれわれの存在の本質に関わるものでもある。


そう、政治的なものに縛られたまま、それを克服することができず(その努力さえせず)、子どもや、社会的弱者たちを、暴力に満ちた「政治的な場」へと強引に追いやってきたのは、われわれ日本人の方なのだ。
日本国内の朝鮮学校について考える時、このことを、決して忘れてはならないと思う。
朝鮮学校は、その歴史を考えても、もともと特定の国と強い結びつきがあったわけではない。自分の故郷の言語や文化に触れる機会の無い子どもたちに、それを学ぶ機会を与えようという親たちの思いから作られた学校だったはずである。
占領下、冷戦下の弾圧や差別によって、この学校を追い込んで日本の制度と社会から排除して孤立させ、経済面でも本国(朝鮮民主主義人民共和国)の支援がなければ成立しない状況にしたのは、日本の側だ。
この支援は無論貴重なものだっただろうが、ぼくが言いたいのは、元来日本の側が植民地支配の責任に基づき民族教育の補償を行っていれば、朝鮮学校がとりうる選択の幅は、もっと広がっていたはずだということである。
もちろん、朝鮮学校が現実にとってきたあり方、たどってきた道が、幸福なものだったか不幸なものだったか、ぼくには分からない。
ただわれわれが自覚するべきなのは、朝鮮学校が、実際にそうであった以上に、日本の社会のなかに深く溶け込んで存在する可能性を阻んだのは、われわれ自身の暴力に他ならなかったという事実だ。


彼らから、政治的暴力や緊張にさらされない、いわば「当たり前」の暮らしを奪ったのは、われわれの側の暴力、われわれの(たいていは)意識せざる政治性(国家との同化)である。
ぼくは、そう思う。


われわれの社会は、その自分たちの暴力には気づかぬふりをして、いつも、少数者・被差別者である相手側の暴力や排除(独立)だけを非難する。
朝鮮学校の日本における歴史は、弾圧と差別と排除の連続だろう。
近い例だけを挙げてみても、テポドン騒動のときのチマチョゴリ切り裂き事件、拉致問題発覚の後の脅迫や社会全体からのバッシング、そして今回の「砲撃事件」を理由とした無償化「凍結解除」の見送り。
それらに共通しているのは、こちら側による集団的な暴力の発露の欲望を正当化するために、相手側の暴力が殊更に強調されるということである。また、自分たちが過去に行った巨大な暴力、略奪、差別を否認・隠蔽するためにも、相手側の暴力的なイメージは過度に強調される。


要するに、われわれが自らの国と社会と個人の暴力性を克服する努力を行っていれば、朝鮮学校とそこに関わる人たちは、政治的暴力を含めた過剰な被暴力の現場に生きる必要はなかったはずである。
むしろ、朝鮮学校在日朝鮮人の側は、政治的暴力からの解放を求めて、日本の社会に根ざして(同化ではない)生きることを求め続けたが、それを拒み、自らの政治的権力性のなかに留まり続けたのは、われわれ日本人の方ではなかったのか。
弾圧や恫喝や暴力や差別をやめない国と社会に、同化したいと思っても、誰が進んでそう出来るだろうか?
恫喝を繰り返してきたのは、何も橋下や在特会だけではないのだ。


在日朝鮮人の多くは、朝鮮学校出身の人であっても、差別的な国家権力の磁場から自由である限りの日本社会には、きっと愛着をもって生きているだろうと思う。
これは、ぼく自身が、実際に接してみての実感である。
だが、そういう国家権力の磁場からすっかり自由な人間として生きていると(また、そうした人間が大半であると)、今の政治状況を見ながら言い切れる日本人が、果たしてどれほどいるか?
ぼく自身、あなた自身はどうか?


要するに、朝鮮学校が今置かれている困難の最大の原因は、ぼくたちが変わろうとしてこなかったことである。
自己の集団的・個人的な暴力性を克服せず、したがって国のあり方の根本にもメスを入れず、少数者からの共生への呼びかけを、その無為によって拒み、この人たちを困難な状況に追いやっておいて、そういう状況を生きていることを理由に非難したり排除する。
そういうわれわれの傲慢さが、もはや外聞も無く露呈し始めているのが、今の日本の国の有り様だ。
この状況を変えるために行動する責任が、もっぱら誰にあるかは、言うまでもないだろう。

*1:今朝朝日のサイトを見てたら、ムバラクが「大きな混乱より、少数者が犠牲になる方が望ましい」というようなことを言ったという記事があったが、菅政権の例のスローガンを簡単に言い換えたら、それになるのではないかと思った。