無力化に抗するために

自民党は三百議席程もとる大勝だったのに、幹事長まで務めた加藤紘一氏は落選したそうである。
すでに広く言われているように、今回の選挙では、一般に左翼的とみなされている勢力だけでなく、リベラル保守と呼ばれるような勢力も、ほぼ壊滅したと言っていいだろう。この敗北が、一過的なものであるとは、到底考えられない。


今回の自民党の大勝利と、右派・改憲派に対抗するべき勢力、政党で言うなら、社民党共産党、それに議論が分かれるが未来といったところだが、それらを全て合わせても20議席にも満たないという惨状、これを小選挙区制のせいにする意見がある。
たしかに、得票数は、この選挙制度の不合理を明らかに示しているようだ。この選挙制度は、よくないものだと思う。
だが、それを批判することにかまけて、今回の選挙にあらわれた、あるいは選挙結果によってもたらされた事態の深刻さから目を逸らしてしまうのは、愚かなことだと言うしかない。
選挙制度がどうであろうと、右派や改憲派が議会で圧倒的多数を占めるという政治状況は、すでに現出してしまったのであり、これは後戻りがきかない。
選挙制度を変えればなんとかなるという意見は、「次の選挙」があるということを当然のように前提してるのだろうが、今回の数字と、その数字を握った勢力は、その気になればそんな前提を簡単に潰してしまえるものだという事実から、目を逸らしてはいけない。
戦争が起きてしまえば、民主的な選挙など(実際には)ありえないのだ。
いや、改憲が行われた時点で、すでにそれはありえなくなる。それがほぼ不可避になったというのが、今の現実なのだ。


われわれは、小選挙区制のせいで負けたわけではなく、われわれが負け続けた結果が、この小選挙区制というものだと、そう思う。
このうえなお、日々負け続けているというこの現実から目を逸らすために、選挙制度の問題を持ち出すのか。
いや、制度の改革、それも確かに大事なことであろう。この制度が、民意を著しく歪めているということは、その「民意」なるものの内実に大いに疑問があるとはいえ、一応は確かな事実だろう。
ただ僕は、根本的なものから目を逸らすための、根本的なものとはつまりこの社会の人々の政治に対する態度や意識ということになるが、そのための方便として選挙制度の非合理さが持ち出され、それを論うことで、本当に変えられるべき構造が温存されてしまう、そういう風になってはいけないと思うのである。


今回の選挙で、何よりも重視しなければいけないのは、投票率の低さではないか。僕には、この投票率の低さのなかに、右派・自民党が議会で圧倒的多数を占めてしまう政治状況というものが、すべて含意されていると、感じられるのである。
ここにあらわれているのは、政治的な無力化の明白な成果、ということである。
なかには、今回の選挙結果を見て、「直接行動」の必要性を訴える意見がある。その必要性自体は、たしかに論を俟たないが、これもまた「小選挙区制敗因論」に似て、敗北と現状の深刻さから目を逸らせるための気休めにもなりうるものだ。
というのは、選挙に行かなかった人のほとんどは、決して選挙制度に否定的だから行かなかったわけではなく、逆に選挙制度を「建前」として成り立っている現在の体制にまったく無批判かつ従順であるから、選挙によってもたらされるであろういずれ五十歩百歩の政治的現実には無条件で迎合するがために、あえて選挙に行かなかった人たちだからである。
言い換えれば、この人たちは、政治的にまったく無力化されている。
日本はデモに参加する人が極めて少ない国だと言われるが、デモに参加するどころか、投票所に行くという簡単な行動さえ出来ないほどに、その無力化を徹底して被っている人たちだと言える。
僕自身はといえば、かろうじて投票には行った。そして、なおかろうじて、ときたまデモにも参加するけれども、やはりこの「無力化」のさなかにある一人である。
いったい、投票という最小限の力の行使すら出来ない人間に、「直接行動」など出来るであろうか?
しかも今や困難さは、たんに主観的なものではない。右派・改憲派が、翼賛的な支配を遂行するであろう政治状況では、デモなどの直接行動や市民活動は、官製的なもの以外は、徹底的に非合法化されていくと考えられるからである。
今回の選挙結果を見て、すぐさま「直接行動」の正当性がもてはやされる様子を見ていると、やはりこの「無力化」の進行という現実の深刻さから目を背けたいという欲望に、多くの人たちが支配されているのだと思わざるを得ないのである。


重要な問題は、この無力化されたわれわれ自身と、どのように対峙するか、ということだろう。それは、この無力化こそ、われわれが権力の命じるままに他人を殺したり傷つけたりするようになる仕方だからである。
この無力化を促進するあらゆる力に対抗して、殺されず、殺さずに生きていくために、自分自身を支配されない力、殺さずに生き抜く力のなかへと引き出す努力がなされなければならない。
われわれは、強いられた無力さから脱して、他人に暴力を行使しない反権力的な無力さの中へと、自分を差し向けなければならないのだ(憲法9条は、まさにそういう理念を持つものだろう)。
事態は、あまりに暴力的で深刻である。この事実から目を逸らさないこと、その被暴力と、自己の暴力性の自覚のさなかで、他人や自分自身に出会い続けることが、必須の事柄になるだろう。