旗旗さんの記事について

最近、以前ほどネットを見なくなっていて、情報にうとくなってるのだが、数日前にこういう一連の記事を読んで驚いた。

http://bund.jp/modules/wordpress/?p=8236
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=8320
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=8379




6月11日の東京でのデモ開始前の集会でトラブルがあったことは、前日からツイッターを見たり、その後の情報によって少しは知っていたが、具体的に当日何があったのかは、実はほとんど知らなかった。
こちらの情報なども参考にしてみると、
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110620/p1
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20110619/1308487730
http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-97.html



予定外に日の丸を担いで登壇した人のスピーチを阻止すべく奮闘した人たち(「ヘイトスピーチに反対する会」)があったようである。
先ほども書いたように、ぼくは6・11の前夜、たまたまこの件についてのツイッター上のやり取りを見ていた。そこでは針谷氏という人の登壇が予定されてるので集会・デモへの参加をボイコットしようとの呼びかけが北守さんからされてたのだが、深夜になってその予定が取り消しになったという報告が主催者からあったので、ボイコットはせずに参加することになったという流れだったはずである。
つまり、この人たちは当初から妨害行為を目的で集会・デモに参加したわけではなく、行ってみたらあまりにひどいことの連続(「反対する会」の報告にあるような)だったので、たまりかねて実力行使に及んだ、ということのはずだ。


それで旗旗さんの記事だが、この阻止しようとした人たちの側(「ヘイトスピーチに反対する会」)を非難する内容になっている。
ぼくは、このブログについては、以前からよく読ませてもらい勉強させてもらっている。
今回の記事についても、正直言うと、最初に読んだときは、おおむねもっともな主張であると思いかけた。だが、その後よくよく考えてみると、それを「おおむねもっとも」だと思った自分の思考の方が、はなはだ胡散臭いものに思えてきた。
結論としては、旗旗さんの主張は、ぼくには誤りだとしか思えない。
そのことについて、以下に書く。


まずおかしいと思う事

まず、なんといってもおかしいのは、旗旗さんは日の丸を持って登壇してスピーチを行おうとした人の暴力性は問わないで、それを力ずくで阻止しようとした側の暴力性だけを非難してるということである。
ぼくから見ると、暴力の度合いとしては、前者の方が、つまりは日の丸を掲げてスピーチを行おうとした者や、それを容認していた者たち(ぼくもその場に居れば黙認してしまっただろうが)の暴力性の方が、はるかに悪質だ。今の日本の国家と社会の状況を考えれば、デモの場での「日の丸」の跋扈を許すことには、現在のみならず将来に向かっても、大きな危険がある。
それを阻止しようとする暴力に比して、日の丸の持込の暴力性の方が一般社会から非難されることが少ないのは、ぼくから見ると「日の丸」の暴力性が、それだけ社会全体に浸透している証拠でしかない。つまり、危険さの証明なのだ。
しかし、どちらの暴力がより大きいか(危険か)は、ここではそんなに大事ではない。
大事なのは、そもそも「日の丸」の側の暴力性が、旗旗さんには認識されていないらしい、ということである。


旗旗さんが、「ヘイトスピーチに反対する会」の暴力に憤っているのは、それが旗旗さんがもっとも大事なものだと考える、「言論の自由」を脅かすかららしい。
一方、日の丸を掲げて原発反対のデモや運動を行うことの是非は、「政治的意見の多様性」という程度のこととしか考えられていない。つまり、デモや集会において「日の丸」が翻り愛国的なスピーチが行われるということは、「国民」という枠から多かれ少なかれ外れてしまう少数者にとっては露骨な「排除の暴力」として働くということの重みは、無視されているのである。
旗旗さんにとっては、差別や排除が行われない社会の実現ということよりも、「言論の自由」が保障される社会の確保ということの方が、ずっと大事なのだと思わざるをえない。後者のために、前者の重みはあえて無視され犠牲にされていると思えるからである。


旗旗さんは、「ヘイトスピーチに反対する会」の行動を、「内ゲバ」の歴史を繰り返すものであるとして批判するのだが、今の日本の国家と社会の現実を見ると、明らかにさし迫っているのは、植民地主義や侵略主義、排他的国家主義の支配の再来ということの方であろう。
「反対する会」が本当に旗旗さんの言うような危険な性格を持つ集団だとしても、それによって日本にスターリン主義の国家が誕生したり、そうした勢力が多くの人々に脅威をもたらすと、誰が思うだろう。
だが「日の丸」の方は、国家権力と一体になって、今まさに多くの人々を蹂躙し脅かしているのだし、さらにその方向へと突き進もうとしているのである。
それでも旗旗さんは、「日の丸」の暴力を「多様な意見」の一つとして相対化可能な程度のもととしてしか認めず、一方で「反対する会」の暴力(野次を飛ばしたりマイクのコードを抜いたりという行為だが)は「スターリン主義」につながるものとして激しく指弾するのだ。


ぼくは、自分が考える「言論の自由」を守るためだと言って、現在の日本における差別や排除の暴力の支配(その表れとしての「日の丸」の氾濫)に目をつぶる、旗旗さんの態度こそが、政治的な暴力性に満ちたものだと思う。



都合の良すぎる「民衆」像

旗旗さんの主張の中心的なものは、このエントリーに書かれてるのではないかと思う。
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=8320

少し感想を言いますと、「核(原発)は嫌だ、恐い、おそろしい」という民衆の即時的な意識を、あまりにも軽視している上に、さらに(6・11主催者への反発のせいもあるんだろうけど)侮蔑さえ感じられます。「原発は嫌だ、放射能はおそろしい」というだけではダメだという主張はわかりますが、まず「原発は嫌だ」という点で一致することは大切なことですよ。まずそこからはじまるというか、それは民衆の素朴で正当な要求なのであって、それをすくいあげ、その実現のために共に努力して、信用や権威を勝ち取っていくことが大切だと思います。その上で、「じゃあその願いを実現するためには何が必要か」ということを、民衆と同じ目線で語り合い、説得なり討論していくことが大切ではないでしょうか。それは「直接行動」に比べたら、ものすごく地味で根気のいることですが、それなしに「『放射能はおそろしい』じゃダメだ」と言われても、周囲の人からは反発しか生まないでしょう。

 あと、特に「個人的な補足」に言えるのですが、意識しているかどうかはわかりませんが、これはまさにレーニンの「外部注入論」そのものですよ。アナキストからは一番嫌われている論理だと思っていましたが。ただ、レーニン主義組織論にしても、別に「遅れた大衆を目覚めた前衛が導いていく」というようなことではないんですよ。少なくともこの文章ににじみ出ているような、悪しき前衛主義的な発想のほうこそがダメだと思います。ネトウヨ系のみなさんへのメッセージにも同じことを書きましたが、まずもってその「遅れた大衆」から活動家のほうが学ぶ姿勢というか、左翼的に言えば「プロレタリア性の獲得」として語られてきた内容なり実存がないところで、誰も耳を傾けてくれないのではないでしょうか。


気になるのは、旗旗さんは、「民衆」という言葉を、あまりにも自分に都合のいいものとして使ってるということである。
集会の場で「日の丸とスピーチ」に反対した人たちは、「日の丸とスピーチ」によって脅かされたり排除される人たちのことを考えて、阻止行動に出たのだろう。それが、彼らの考える「民衆」であり、ぼくもそういう「民衆」のためにこそ行動したいと思う。
一方、旗旗さんの考える「民衆」には、こうした、日の丸によって脅かされて排除されるような人たちは、どうも入っていないような感じを受ける。ここには、「民衆」という言葉の中味の違いがあるはずである。


ここで理屈っぽくなるが、この「民衆」をイメージしているのは、あくまでも私(その人)自身だから、それは私によって想像された民衆像でしかありえないのである。それは悪いことではなく、むしろだからこそ、私は他人に連帯しようとし、挫折したり自分を発見したりもするのだ。
そのことは、旗旗さんも同じだろう。
旗旗さんが、民衆を軽視・侮蔑するなと言うとき、それは旗旗さんの主観の刻印を押された民衆像である。言い換えれば、民衆の中には、イデオロギー的な認識を越えた知恵のようなものがあると旗旗さんが語るとき、そこには、イデオロギー的な認識を絶対視する考えがヘゲモニーを握ることを避けたいという、旗旗さんの願望が込められているはずである。
それはそれでよい。
ところが旗旗さんは、「民衆の素朴で正当な要求」とか、「民衆と同じ目線で語り合い、説得なり討論していくこと」の大切さとかいった表現を使う。「民衆」なるものを、旗旗さんとは別のところにある絶対的な真理(錦の御旗)のように持ち出してきて、それ(民衆)を説得させられないからといって、「直接行動」的な手法を独善的だと揶揄するのである。


結局旗旗さんが「民衆」を持ち出すのは、それによって日本社会の現状に何がしか同一化している自分の位置を正当化するための方便だとしか思えない。
旗旗さんが語っている「民衆」は、差別的な国や社会の現状に対して無自覚・無批判な人たちの姿であるが、それは旗旗さんによって「こうあって欲しい」と願望された民衆像であり、その願望の枠組みのなかでしか旗旗さんは民衆(他人)というものを考えようとしてないように思えるのである(だから、この「民衆」は同一的で排他的である。)。
こうした思考こそ、実は(悪い意味での)「隠れ前衛主義」と呼べるものではないだろうか?




「踏み絵」としての体制批判

また、特に三つ目のエントリーの中では、「反対する会」が朝鮮や中国の人権侵害について批判を行っていないことが問題とされている。
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=8379
旗旗さんは、旗旗さんの思う「言論の自由」や「人権」を(排他的なほどに)最重要の政治的テーマとしているのだから、こうした「スターリン主義批判」が、正しい左翼であることを証明する条件になるのは、無理からぬところだ。
だが、こうした国々の、(人権問題などの)政治的状況を含めた国内状況に、誰もが心を痛めているにしても、それを改善するためにどういうアプローチをするべきかという考えは、それこそ多様なはずである*1
例えば、日本政府と日米同盟などによる敵視的な政策と、「無償化除外」などの差別政策と弾圧、在特会や「日の丸」の跋扈に代表される差別状況の激化という、日本の側の現実を踏まえれば、まずこのような身近な現実の改変に取り組むことが第一であり、今の日本の状況下で朝鮮や中国の現体制への批判を行っても、何らかの良い効果は期待できず、むしろ日本社会の右傾化と排外的な傾向に拍車をかける結果しかもたらさないという判断も、当然ありうるだろう(ぼく自身も、言葉にすればそうした考えである。)。


つまり、日本という国にいながら朝鮮なり中国なりの人権状況についてコミットしたり発言するという具体性を考えれば、そのあり方、見解の表明の仕方は、多様であって当たり前だ。
「日本人として批判はすべきでない」ということではなく、歴史や現在における影響の絡み合いを考えれば、そこではさまざまな考え方、態度がありうるはずだということである。
逆に言えば、それほど日本国家と社会の差別的な実態はひどいのだ。
むしろ問題なのは、にも関わらず、それらの国々の人権状況への明示的なコミットと批判の表明が、まるで(左翼にとっての)「踏み絵」のように要請されるということの(国家的な)暴力性である。
それは、自国の政治体制について以上の厳格さで、日本が差別しつつ敵対している国の体制に自らも敵対を表明することを、「人間」であることの条件として、「正しい左翼」であることの証明として、個々に突きつける。
その暴力の影で密かに易々と免れてしまうのは、過去と現在において朝鮮半島朝鮮人、あるいは中国の命運を何がしか決めてきた(決め続けている)、自分たちのこの国の政治的な実在への自覚だ。
旗旗さんは、この暴力性に無自覚であるか、そうでなければ敢えてこの国家的な仕掛けに加担していることになる。


旗旗さんは、「言論の自由」や「人権」を中立的な価値のように提示するけれども、「日の丸」に代表されるような日本の国家的・社会的な差別の暴力の重大さに目をつぶるならば、これらの理念は、日本国家の論理に組するだけの政治的な道具に終ってしまうと思う。
それらが、本当に政治の道具でなく、真の民主主義や反差別のための武器として働いていると言うなら、それらは必ず自ら(われわれ日本人)が加担して行使している差別や政治的・集団的暴力に対しても同時に、あるいはまず真っ先に、矛先を向けているはずだ。
その関門を通らずに、これらの理念による批判が真実のものとなりうるような理想的な社会に、ぼくたちは生きていない。
だが今回の出来事に関する限り、旗旗さんにおけるこれらの言葉(理念)は、そのようには働いていないと思えるのである。

*1:このことは、先に述べた「日の丸」の暴力を「政治的意見の多様性」レベルのものと見なして軽視(無視)する姿勢と同型ではない。ここでの態度の多様性の是認は、現実に働いている暴力の具体性を直視することを意味しているのだから。