愚劣な言い分

慰安婦問題、韓国と協議中=「女性基金」正当評価を−野田首相

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&rel=j7&k=2012092400007


見出しだけ読んで、一瞬何か良い進展があるのかと期待したが、最悪だ。
野田首相や日本の政治家にはやはり、自分たちが過去も現在も行使している暴力の本質がどこにあるのか、なぜその行為や態度、言動が、アジアの人たちの不信を呼び、怒らせ続けるのかということが、まったく理解できていないらしい。

首相はインタビューで、国民の寄付などで発足した「女性のためのアジア平和国民基金」が元慰安婦への「償い金」事業などに取り組んだと指摘。「台湾やフィリピン、インドネシアで肯定的な評価を受け、韓国も当初は肯定的評価があったが、途中から変わってしまった」と不満を示し、「基金の評価をまずちゃんとしてもらわないといけない」と強調した。


国民や民間が、責任を忌避し続ける醜悪な自国の政府に代って、被害者に償いをするということは、別に悪いことではない。
それは、自国の政府に責任をとらせるということに比べれば、第二義的な責任のとり方にすぎないものではあるが、何もしないよりは確かにずっと良いであろう。日本政府の非道な態度のおかげで社会的・精神的にも経済的にも、苦境に陥っているであろう人たちのことを思いやり、そうした償いのための事業に尽力された人たちの善意は否定しない。
だが、政府がその事業を、自らが謝罪も補償も行なわないための方便にするなら、また実際にそうであったことは明らかだが、被害者たちの分断を画策する意図をもってその事業を政治利用するのなら、それはたんに、札束で被害者の顔を叩くような、侮蔑の暴力でしかありえないだろう。
日本政府が利用したことによって確定した「女性平和基金」の相貌とは、残念ながらそういうものである。


個人や民間が、被害者に謝罪や救済を行ないたいということは、政府に責任をとらせていない以上は不十分なものであるとはいえ、それなりの善意のあらわれなのだから、それを受けとってもらえるなら本来有り難い話なのだが、それが政府の責任を回避するための方策として行なわれるという現実があるのなら、突っ返されるのが当たり前である。
金で人の面を叩くような輩は、どんな罵声を浴びても仕方がない。もちろんこれは、政治家や役人達のことを言っているわけだが。


野田首相は国会で、「慰安婦」問題に関する政府の責任を否定する旨の発言を行なった。政府が関与したといえる明白な証拠はない(見つけ出せなかった)、そう言ったのだ。
自分たちがあえて残さなかったり、隠蔽しておいて、それを「調査した」かのような体裁をとりつくろって、「証拠が見つからないそうです」と開き直った。
「完全犯罪」を遂行した犯人が、全ての証拠を自ら消し去ったことを確認した上で、刑事か探偵を呼んで部屋のなかを調べさせたようなものである。
要するに、自らの罪を反省し、かけがえのない証言はもちろんだが、第三者的には不確実と思われるような些細な証拠であっても、被害者の救済と名誉回復のための材料として最大限に尊重し、謝罪と補償に結びつけようとするような、「当事者としての誠意」が、全くないのである。
そういう人間が、「基金の評価をまずちゃんとしてもらわないといけない」などと言っている。この言葉が、「金はちゃんと渡しただろう」という、暴力常習者の傲慢な脅し文句にしか聞こえないのは当然のことであろう。


実際ここには、人間を侮り、金の力によって全ての物事を解決できると信じる、植民地主義者の卑劣な精神しか感じられない。
中国のデモに対する、その下の発言も同様だろう。
そんなふうに騒いでると、「もらい」が減ってお宅のためにならんよ、という低劣な脅し文句である。
世の中の全て、人間の全てを、金の論理でしか考えられない、愚かさ、浅薄さ。
だがそれは、ひとり野田だけの問題ではなく、植民地主義と強欲な資本の論理から脱け出せない、この国全体の体質をあらわしているのである。