ニコンよ、恥を知れ

こうして詳しく話を聞いてみると、いかに酷い話かがよく分かる。

Fotgazet通信・問われる表現の自由ニコンサロン写真展中止事件
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node%2F1382


ニコンが、掲示板での書き込みや、もしくはそれ以外の何らかの圧力を受けて自分たちの決定を覆し、写真展を中止にしたというのは間違いないところだと思うが、それを正当化するために、「政治的な表現だから展示させない」と言っているのだという。
自分たちのいわば都合で、一度は自分たちが決定して企画した表現の場を潰しておきながら、その理由をなかなか明らかにしようとせず、司法の場に持ち込まれてやっと表明したと思ったら、まるで「(ニコン自身によって)被害を受けた側」(つまり安世鴻さん)に非があるかのように言い出す。
ここには、「慰安婦」問題が日本において周縁化されてきた主たる理由である、日本の企業と社会の体質が、よく表わされていると言わざるをえない。
つまり、暴力を振るった側、とりわけ政治的な暴力を行使した側が、振るわれた側を抑圧し排除する、さらにはあろうことか、揶揄したり攻撃さえする、という体質だ。
ここで何よりも問われているのは、社会的責任を持つべき日本の企業の体質なのである。


ニコンとしては主観的には、厄介ごとに巻き込まれるのを嫌って、安世鴻さんを黙らせながら展示会を中止にしようとした、ということだろう。
そこに特段の政治的意図も暴力の意志も無かったと思っているだろうが、企業の都合によって表現の場を奪ったという事実はきわめて重い。
現実に「反日的」だのという中傷によって、この国ではどれだけの表現の自由の侵害が行われているかという現実を考えれば、この行為が、国や社会の支配的な趨勢と一体化した表現者への政治的圧迫であることは否定できないはずである。
ニコンは決して、厄介ごとに巻き込まれた被害者なのではなく、抑圧の加担者なのだ。まず、そのことをよく自覚してほしい。


さらにその理由として、あろうことか「政治的だから」ということを持ち出したのは、差別への迎合に傾きやすい自らの体質を正当化し、明確にある種の表現(「政治的」だの「反日的」だのと恣意的に揶揄されるような)を抑圧・排除する側に自らを置く行為だと言える。
つまり、この企業はここで、無自覚な差別と抑圧の加担者から、政治的排除と表現の圧迫の自覚的な主体へと、変容しつつあると思われるのである。


僕はこの「政治的だから」という言葉を聞いて、原発事故による被害の救済と安全とに責任を負う立場にありながら、「国民の生命を守る」というような名目で再稼動の意志を表明した総理の妄言を思い出した。
「恥を知れ」という言葉を、われわれはこうしたこの国の企業や政治家に対して、今こそ投げつけるべき時だ。