高里鈴代さんの講演を聞いて

今週の初めにFBとmixiに書いたものですが、ほぼそのままの形で以下にも載せておきます。
メモを元にしているので、内容に不正確なところがあるかもしれません。ご了承ください。


14日日曜日、大阪で行われた集会、『8・14日本軍「慰安婦」メモリアル・デーを国連記念日に!〜日韓「合意」は解決できない〜』に参加し、沖縄の高里鈴代さんの講演を聞きました。
高里さんには、4月に辺野古に行った時も、ゲート前で貴重なお話を聞かせていただいたので、今回は是非講演を聞きたいと思っていました。
高里さんが、もともと東京都や那覇市での、女性たちからの電話相談に答える仕事からキャリアを始められたことを、今回初めて知りました。そのなかで出会った女性たちの話をされる高里さんの姿が、とても印象深かったです。
被害を受けたその人達の言葉が、いまの高里さんの活動を支えている、ということ。
また、沖縄では、女性に対する暴行など米兵による事件が話題になるたびに、「復帰」後の件数がマスコミに載るが、それはおかしい。基地の米兵による被害は、沖縄では敗戦の時からずっと続いている。高里さんたちは、その全貌を記録する年表を作成されたそうで、会場でも販売されていたようです。
僕はとくに、敗戦から朝鮮戦争当時にかけての米兵による暴力が凄まじいものだったことを、はじめて知りました。ベトナム戦争と沖縄との関連は、よく聞いてきたのですが、朝鮮戦争については、あまり関連を考えたことがなかった。
そして、太平洋戦争時に日本軍が行なったこととして、特に「慰安婦」の問題ですが、沖縄には145カ所の「慰安所」があったことが分かっているそうですが、それらは同時に存在したということではなく、沖縄では「本土防衛」のために軍によって飛行場が各地に次々と作られ、その建設工事にあわせて、「慰安所」も作られては沖縄中を移動していった、ということらしい。
高里さんは、これは「慰安所」の制度が軍の政策と一体のものだったことの何よりの証拠だろう、と述べておられました。
また、現状について、米国本土などとは違って、面積の狭い沖縄では、訓練を基地の中だけで完結することは不可能なので、兵士や車両は当たり前のように基地の外の公道を移動することになる。基地には、民間人の立ち入りを禁止する看板が立っているが、逆に民間地域への米兵の立ち入りを制限するゲートは存在しない(これは重要)。すなわち、米兵にとっては事実上、沖縄全体が基地に他ならないのであり、それゆえに性暴力などの事件や環境破壊も頻発することになる。
これは、「地位協定の改定」などで解決することではないでしょう。
95年に少女暴行事件が起きたとき、高里さんたちが口火を切る形で、大きな基地反対の運動が沖縄に起こった。しかし、今になってみると、その動きは元々軍事強化を狙っていた日米両政府に逆利用されるかのように、辺野古新基地建設や高江のオスプレイパッド等建設というところにつなげられてしまっている。
あの時(95年当時)に、移設ではなく基地撤廃の動きにつなげられなかったことに、痛恨の思いがあると語られていました。

最後に、とくに考えさせられたことですが、今年5月に起きた元米兵による女性遺体遺棄事件のとき、高里さんたちは、沖縄の女性たちに、あえて言葉を発さず、沈黙のなかで(沖縄では死者の魂を運ぶとされる)「蝶」のプラカードを掲げる「沈黙の追悼・抗議集会」を呼びかけた。それには多くの人が参加したが、「このような形だからこそ参加したのだ」と言われた方が少なくなかったそうです。
高里さんは、「慰安婦」問題や、沖縄での性暴力の問題に関して、「被害者が沈黙を強いられる社会」が今も続いていることが日本の現実なのであり、それを変えていくことが根本的に必要だ、ということを繰り返し強調されていました。
この「強いられる沈黙」と「あえて選ばれる沈黙」とは、まったく別のものであろうと思います。後者は、言葉にすることで一つにくくられ(束ねられ)、大事なものを切り捨てられてしまうことへの抵抗のあらわれであり、それは「強いられる沈黙」を打ち破る勇気と、同じものの両面をなしていると思うからです。