ヘーゲルにおける「和解」や「寛容」

ヘーゲル精神現象学』の後半、「D 精神」と題されたパートの最後のところでは、「和解」ということについて書かれている。


そこでは、自分の行為に含まれる「悪」を告白する行為者の意識と、それを聞き判断する評価者の意識との対立が問題にされ、この両者が相互承認によって「和解」(最終的には、キリスト教的な国民国家の形成につながっていくのだろう)へとなかなか達することが出来ない原因(責任)は、主に評価者の側にあると指弾されている。
難しい訳だが、平凡社ライブラリー樫山欽四郎訳から、一部を引いてみよう。

精神現象学下 (平凡社ライブラリー)

精神現象学下 (平凡社ライブラリー)


まず、下で書かれているのは、評価する(考え批評するばかりで行動しない)側の意識のことである。

一般的意識は思想の一般態に止まっており、把握するものという態度をとっており、その最初の行為は判断であるにすぎない。(中略)この意識は純粋な姿のなかに自分を保っているが、それは、行為しないからのことである。それは、判断を現実の行為と見てもらいたいという、(中略)偽善である。(中略)この意識は、自分の知ったかぶりの知が非現実的で空しいのに、自分自身が、こきおろした行為よりも高いところにいるとし、行為を伴わない言説を、すぐれた現実であるかのように、受けとらせようとしている(後略)(p259〜262)


その一方、ともかく行動を行った者、実践の場に自分を置いてしまった者は、自身の「告白」(率直な発話)のさなかで、次のようなことを欲っしているのだと、ヘーゲルは書いている。

かく等しいことを直観し、言表しながら、行為者が評価者に向ってやはり告白し期待することは、評価者が事実上行為者と等しいところに立ったように、評価者も自らの言説で同じ答えを返してくれることであり、さらにそこに互いに承認し合う定在が入りこんでくることである。(p262〜263)


「承認」(を求める)というヘーゲル独特の発想が、何とも気になるが、それは抜きにして、たんに人間同士の対等な関係というものを考えても、上のくだりには、うなづけるところがあるのではないかと思う。
繰り返しになるが、ここで、両者の間で関係がうまく成り立たず、齟齬が生じてしまうのは(ヘーゲル流に言うと、和解が成り立たないのは)、評価者の態度にこそ原因があるのだというのが、ヘーゲルの言い分だ。
その評価者が下す「判断」なるものについて。

しかしながら、(中略)その判断は共通性をつきはなし、きびしいこころをもっていて、自分だけで存在し、他方との連続を却けてしまう。――このため様子は一変してしまう。告白する方は、自分がつきはなされ、相手が正しくないことに気がつく。つまり、相手は、その内面から、言説の定在に出てくることを拒否し、悪に対しては、自分の魂の美しさを対立させるが、告白に対しては、不動の性格という項を硬ばらせ、沈黙して相対する、そのため自分のなかに止まったままで、相手に対し自分を投げ出そうとはしない。(p263)


上に比べると難しい言い回しだが、さらに次のように同様の主張が書かれている。
前半では行為者の「精神」の立場から憤懣が述べられ、「(中略)」以後の後半では、ダイレクトに評価者の「冷酷な態度」が非難されている。

つまりこの精神は、自ら告白したときに、自立存在〔対自存在、自独存在〕が他から孤立していることを拒んだのであり、自分の特殊性を棄てたのであり、その結果相手と連続し、一般者となっているのである。それなのに相手は、精神自身において、自己を伝達しない自分の自独存在〔対自存在、自立存在〕を、自分のために保留しておく。(中略)そういうわけで、相手〔行為者〕が行為の結果から、言説という定在に、精神の等しさに帰ることを妨げ、冷酷な態度で、まだ残っている不等をつくり出そうとするのは、この他者自身〔意識〕なのである。(p264〜265)


行為者が「言説という定在に、精神の等しさに帰る」ことを妨げているのは、評価者の冷酷な態度が原因だと、ヘーゲルは言う。
ここには、行為者を「言説」という場に回帰させることによって社会の安定を回復(維持)しようという、ヘーゲル保守主義的な思惑が示されている、とも読めそうだ。
「和解」とは、行為者の憤りを宥めて、秩序のなかに復帰させ、あらかじめ規定されている社会の安定を取り戻すことだ、というわけである。
評価者の頑なで冷酷な態度は、そのことを困難にしてしまう。
かくて、「和解」のための道筋は、次のように結論される。
長くなるが、一応引いておこう。

両者を自己意識的に定在的に真に等しくすることは、その必然性から言って、これまでのところにすでに含まれている。評価する方のきびしいこころを破り、これを一般に高める動きは、自分自身を告白した意識において表現された動きと同じである。(中略)特殊な自独存在〔対自存在、自立存在〕という、悪の一面的な承認されていない定在が砕かれねばならなかったように、他者〔評者〕の一面的で承認されていない判断も砕かれねばならない。そして悪が自らの現実を支配する精神の威力を現したように、他者も自らの一定の概念を支配しなければならない。
 〔中略〕後者〔相手、悪〕は自分の現実を投げ捨て、このものを廃棄してしまうので、実際には、一般者となって現われ、自らの外的現実から、本質〔実在〕としての自己に帰る。だから一般的意識〔評者〕もそこに自分自身を認識する。――意識が悪に与える赦しは、自己をまた自分の非現実的な本質を断念することである。この本質は、現実的な行為であった他方を自分と等しくし、行為が思想においてもつ規定のために、悪と呼ばれたものを、善と認める。言いかえれば、むしろ善悪というきまった思想上の区別と、自分で定める判断と、を棄ててしまう。それは、悪の方が行為という自独存在〔対自存在、自立存在〕的規定を捨てるのと同じである。――和らぎという言葉は定在する精神のことであるが、これは、一般的本質としての自己自身の純粋知を、その反対のなかに、絶対に自分のなかにいる個別性である自己についての純粋知のなかに、直観する。――それは相互の承認であり、絶対的精神であるようなものである。(p265〜267)


あらためて読んでみると、どうも「和解」先にありきのような話になっている気が、そのために「承認」という契機が当初から置かれているような気がするのだが、ヘーゲルの論理のそういう要素は、無論多くの人によって批判されてきたところだろう。
ただ、ここに長々と上のようなくだりを引用したのは、ヘーゲルのその「和解」をめぐる論理の是非は別にして、彼のここでの議論においては、「悪」をなした行為者の「告白」と、その悪に「赦し」を与える評価者との対立に重点が置かれているわけではないはずだ、ということを強調したかったからだ。
つまり、ここでヘーゲルは、たとえば加害者と被害者の対立関係を想定して、前者の「悪」(無論、その者が「告白」すればの話だが)を赦そうとしない、後者(被害者)の不寛容を責めるというような、倒錯した言説を展開しているわけではない。
そうではなく、ここで考えられている対立関係は、行為者と評価者、いわば実践のさなかに身を置いてしまった人間と、「実践」なるものの不可避性に気づかぬふりをして冷酷な「判断」(批評)を下すことで、これら行為者の心からの言葉(叫び)を切り捨てようと(否認しようと)する人間たちとの間にあるものなのである。
繰りかえすが、この対立を、ヘーゲルが初めから「和解」へと向うべきものとして立てていたことは事実かもしれない。だが少なくとも、社会のなかの大きな亀裂がどこに存在しているかということは、彼は正確に見すえていたと思うのである。




先日の、関西電力大飯原発の再稼動についての意見聴取会に関する報道を見ていても、いつものことだが、直接的な行動に訴えた人たちに対して、「気持ちは分るが、そういう過激な行動は逆効果だ」みたいなことを言う人が、後を絶たない。
そういう、「まずは冷静に」(「言説の場に戻りなさいよ」)みたいな物言いは、それこそ悪しきヘーゲル主義みたいにも思えるが、しかしヘーゲルを考えるうえで肝心なことは、いくら彼の論理が保守的だとはいっても、行為者を突き動かしている実践の(普遍的な)不可避性を否認して平然としていたり、ましてや「和解」の不成立の原因を「被害者の不寛容」に帰するような、そんな低次元の議論を行うほどのインチキ親父ではない、ということだと思う。


ヘーゲルの思想を尊重してもしなくても自由だが、上のような低次元のインチキな議論がこれ以上流通しないために、その種の物言いのひとつの(誤読・曲解された)源らしきところは、参照しておいた方がいいだろう、ということを言いたかったのである。