循環と対決

タイトルになっている構造主義や解釈学のみならず、西洋哲学史に関して幅広く知ることが出来る好著。

構造と解釈 (ちくま学芸文庫)

構造と解釈 (ちくま学芸文庫)

しかし私は、ヘーゲルアリストテレスはほとんど読んだことがないし、『存在と時間』を意味も分からずに読んだのは30年以上前の学生の頃だ。ガダマーに及んでは名前を知ってるだけで、どんなことを言ってる人かまったく知らなかった。
なので以下は、恥を晒してあてずっぽうをメモしておくだけである。



この本の第14章では、ガダマーの解釈学について、それはヘーゲルハイデッガーの両方の思想を受け継いだものであるということが述べられている。
このうちヘーゲルについては、ディルタイのそれのような『原作者の歴史的心理的な事実過程の復元』に重きを置く解釈学との対比において、その考え方が(ガダマーによって)高く評価されていることが述べられるのである。

ヘーゲルの場合には、過去の歴史的事実の再現ではなく、むしろ過去の時代の作品なり思想なりが樹てている「真理要求」と、いわば「対決」して、それが解釈者の生きている現実にいかなる意義を有するかを思索することこそが、真の解釈とされる。(p307)


これを読むと、ヘーゲルの場合には、過去の作品や思想を評価することにおける、現在の私(解釈者)の、いわば主体的な思想性、アクチュアリティのようなもの、もっと明確に言えば、解釈の対象である(過去の)作品や思想へと関わり行く「対決」的な姿勢というものが重視されている、ということのようだ。
だが著者によれば、ガダマーは、ヘーゲルのこうした「解釈」に関する考え方(姿勢)を高く評価する一方で、ヘーゲルが『そのような対決を弁証法的に遂行し』、「無限の知の立場」や「絶対知」という観点をとって「解釈」を行い、「有限性の立場」というものを忘れたことに関しては批判的であった、という。
ガダマーは、ヘーゲルと違って、『私たちの歴史的経験の有限性』に自らの根本的な立場を置こうとした、ということらしいのだ。

そしてまさにここで、このような歴史的有限性を鋭く見つめたハイデッガーの哲学が称揚されるのである。ハイデッガーこそは、世界の中に投げ出されその中で企投する人間の「現事実性」を見抜き、結局、人間の有限的な「歴史性という存在様式」を問題化し、人間が「伝統や歴史的有限性に帰属していること」を明るみに持ちきたらし、ひいては、「先行判断」に基づきつつ、「循環」的に了解し解釈してゆかざるをえない人間の根本状況を解明したとされる。
 結局ガダマーは、ヘーゲルからは「対決」の思想を学び取り、ハイデッガーからは「有限性」の思想を受け継いで、つまるところ、開かれた対話的思索の態度を、人間の解釈学的世界経験の根本とするのである。(p308〜309)


これを読むと、ヘーゲルの「対決」の思想と、ハイデッガーの「有限性」の思想とは、ガダマーにおいて、後者が前者に対して、抑制的に働くという仕方で対立しているという印象を受ける。
つまり「有限性」を自覚する立場に立つことで、「対決」的な解釈が持ちうる独善性のようなものを抑制する、そのことによって『開かれた対話的思索の態度』をガダマーは確保しようとした。
そういう風に読めるわけである。
だが、ここで言われていることをそういう風に受け取っていいであろうか?




まず、ガダマーが重視したとされるハイデッガーの「解釈」についての考えは、どんなものだっただろうか。本書によれば、それは上にも触れられているように、「循環」ということについての捉え方に大きなポイントがあったとされる。
つまりハイデッガーによれば、「解釈」というものが成立するためには、予めその対象に対する(非言語的な)「了解」が、(解釈者の内部に)存在している必要があるとされる。そのことを認めれば、「循環」という科学的認識にとっては「弱点」と見做されるものが解釈学の知に内在していることを認めることになると、一般的には考えられるわけだが、ハイデッガーは、そこで大胆な考え方の転換を示したというのである。

(前略)解釈はすでに了解されたものを前提するから、いわゆる論理学的な「誤った循環(circulus vitiosus)」の中に陥らざるをえないと見做され、かくして、「歴史学的解釈の仕事」は「厳密な認識の範囲」には入らないとか、あるいは、逆にだからこそ何とかこの「循環」を回避して、「自然認識」と同じように「観察者の立場に依存しないような歴史学を創る」ことが理想と考えられたりした。けれども、ハイデッガーの独創的思索は、こうした虚妄を完膚なきまでに破砕し、むしろ循環の事態を誇らかに肯定するのである。ハイデッガーは言う。循環の中に誤りのみを見てこれを回避することを考え、そこに不可避の不完全性を感じ取るのは、およそ「了解の働きを根本から誤解している」と。了解や解釈を、それ自身が了解の一つの変種にすぎないある特定の認識理想に合わせようとすることが、どだい本末顛倒である。「決定的なことは、循環から脱け出ることではなく、循環のうちへと正しい仕方で入って行くことである」。循環はまさに「現存在そのものの実存論的な予という構造の表現」であり、この循環のうちにこそ「最根源的な認識の積極的可能性」が潜むのである。ただし、それは、解釈がおのれの土台をなす「予め」の了解を、勝手な思い付きや通俗的概念で埋めてよいということではなく、「事象そのもの」に基づいて予めの了解を「仕上げ」、これを「学的に」解釈してゆくという点が肝要であることを忘れてはならない。いずれにしても、世界内存在しつつおのれの存在にかかわる現存在自身が「存在論的な循環構造」を持っているのであるから、この存在論的前提の上に成り立つ「歴史学的認識」は、精密科学の持つ厳密さの適用を超え出ており、要するに、「数学は、歴史学より厳密なのではなく、ただより狭い」だけなのである。(p258〜259)


こうしたハイデッガーの「循環」についての大胆な(肯定的な)考え方こそ、ガダマーが彼から継承した最大のものだった、というのである。
ところで、このハイデッガーの考え方と、先述のヘーゲルの考え方(「対決」的な「解釈」観)とは、同じものを批判の対象にしていると考えられる。
それは、近代科学的なモデルに基づいた、過去の作品や思想に対する「解釈」の態度である。
本書の前半では、近代科学的な考え方の大きな特徴をなすものは、個物の特殊性を重視する見方の偏重であるということが繰り返し述べられていた。

ただ言えることは、現代人はどちらかと言えば、唯名論的傾向が強く、したがって、現実に存在するものはそれぞれみな千差万別の特色を持った個別的な特殊者であって、どれもがみな相対的な個性を有し、どれが典型的な手本でもなく、したがって普遍などというものは机上の空論だ、という考え方に走りやすいということである。(p017)


この傾向を批判して、著者は、次のように述べていた。

要するに、私たちが心得ておかねばならないのは、現実に存在するものはことごとく千差万別の個別的特殊者だけだと見るのは誤りであり、そこには常に、一般的普遍的な共通性が広く深く浸透しているという点であり、この共通の仕組みの上にあれこれの個別的な特殊的現象が成り立っているという点である。現実の中には、差異性だけでなく同一性が、そして共通性が、染み渡っており、この一般的普遍性によって現実はしっかりと締め括られていると考えねばならない。(p020〜021)


すべてのものが、したがって解釈者(観察者)と対象、(たとえば現在の)私と(たとえば過去の)思想や作品とが、個別的で共通性を持たないという側面のみに立脚するような考え方は、近代主義的であり、普遍や「存在」(ハイデッガー)というものを見失わせるものである。
このような近代主義的とも呼べる考え方、とくに「解釈」についての考え方を批判的に越えるものとして、ヘーゲルの「対決」的な解釈観も、ハイデッガーの「循環」肯定的な解釈観も紹介されている。そう考えてよいだろう。


だがそれでは、(特に「解釈」ということに関して)こうした近代主義的な、あるいは個物主義的(唯名論的)な傾向は、なにゆえに乗り越えられる必要があるのだろうか?
それはこうした傾向が、(たとえば過去の)他者の思想や作品、また行動などに対する、私の生きた関わりを阻害するからだろう。そしてそのことが、近代科学的なものに限定されない、真に重要な認識のあり方というものをも阻んでしまうからである。
「解釈」は「了解」を前提してそれを出発点とするがゆえに正確な科学的態度ではありえないといった近代主義的な批判は、対象との生きた関わりについての(私の)意欲を削いでしまう。また、現在の私の価値観を過去の事象に「対決」的に突き合わせることへの自制も、同様であろう。それらのことは、『開かれた対話的思索の態度』を阻害するからこそ、退けられるべきだと、ガダマーは考えている(らしい)のである。
それらは、「解釈」という人間的な行為を、近代主義的あるいは唯名論的な枠組みのなかに閉じ込めて弱めてしまうのだ。
つまり、ハイデッガーの「循環」肯定の姿勢というものも、ヘーゲルの「対決」的な解釈観と同様に、私と他者との、生きた関わりの活発さを保持する(切り拓く)というところに、その本旨があるとされていると思うのである。


実際、本書の15章で述べられるガダマーの考えは、ハイデッガーにおける「人間の有限性」(したがって「循環」肯定)の思想を、ヘーゲルの「対決」の思想を弁証法による形骸化から救い出してより具体化・強化するための装置として導入するものであると、捉えることができそうだ。
そこで述べられているのは、解釈において、人間には「先行判断」を避けることが出来ないという事実(有限性)を、回避したり否認するのではなく、解釈の対象である(過去の)他者の思想や作品との「対決」を真に内実あるものにするために活用する、という発想なのである。

(前略)そのためには、自分の先行判断を「脇に退ける」のではなく、むしろそれを「働かせる」ことこそ必要である。自分も「競い合って」こそ、「他者の真理要求」を経験できるのである。自分を滅却するとか、何らかの方法論に即すれば了解が可能になると思うのは、「歴史主義」の素朴さである。真の歴史学的思考は、「おのれの歴史性をともに思索する」のであって、解釈学においては、対象の側の「歴史の現実」と、解釈者の側の「歴史的に了解する働きの現実」とが相互に噛み合うのであり、この「影響作用史(Wirkungsgeschichte)」の中に了解の本質が宿っているのである。(p343〜344)


つまりここでは(ガダマーによって)、ハイデッガーの有限性の思想は、ヘーゲルの「対決」の思想(運動)を、そのあるべき生の具体的な空間のなかに立ち戻らせ回生させるための、重要不可欠な契機として見出されていることになる。
「対決」の思想が持つ独善性をたんに抑制するものであるかのように見えた「有限性」の思想は、じつは「対決」の思想を本来の生の空間のなかへと救い出して導き入れ、その「開かれた」あり方と力強さとを回復させることを、その役割の本義として、もともと持っていたようなのである。
そして、そのように「対決」の思想に関わることによってこそ、「有限性」の思想自身も、それが元来核心に有している「毒」や「力」(近代主義の桎梏を打ち破るための)を、維持し発揮しえていると思えるのである。