『福島の原発事故をめぐって』

著名な科学史家による、原発事故をめぐる省察


福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと


この本を通読して実感したことは、「原子力」という訳語が日本ではあてられている核工学や核産業というものが、いかに国家権力や、国家主権の思想と深く結びついて成立してきた、いびつな「科学」であり「産業」であるか、ということである。



本書は三章からなっている。
「日本における原発開発の深層底流」と題された最初の章では、この国における「原子力政策」が、そもそもの初めから一貫して、核兵器保有が可能な能力を持ちたいという支配層の意志に基づくものであったことが、詳しく述べられている。

潜在的核兵器保有国の状態を維持し続け、将来的な核兵器保有の可能性を開けておくことが、つまるところ戦後の日本の支配層に連綿と引きつがれた原子力産業育成の究極の目的であり、原子力発電推進の深層底流であった。とするならば、脱原発・反原発は、同時に脱原爆・反原爆でなければならないと言えよう。「軍縮や核実験禁止問題など」についての「国際的発言力」を高めるためには、核兵器保有潜在的能力を高めなければならないという岸の倒錯した論理を、原発とともに過去のものとしなければならないであろう。
 ちなみにドイツが脱原発を宣言したということは、ドイツが今後も核武装をする意図はないという明確な国際的メッセージを意味している。(p24〜25)


ここで「岸」と言われているのは、もちろん岸信介のことだ。
国家の地位を高めるために、「核兵器保有潜在的能力」を高める手段としての原子力政策を、最初に提唱し推し進めた政治家が岸であり、その線上に現在の日本の原発体制も存在している。
岸の孫である安倍晋三が体現している、「国家主権」のために人々の生命や安全を犠牲にして当然とする思想は、まさしく日本における原発の存在の本質を表わしているものでもあるのだ。

日本は、何基もの原発を稼動させることで原爆の材料となるプルトニウムを作り続け、すでにかなりの量を備蓄し、ウラン濃縮技術を所有し、あまつさえ人工衛星打ち上げに何度も成功している。つまり、その気になれば、何発もの核弾頭とその運搬手段としての長距離弾道ミサイルを比較的速やかに作りだすことができるということである。(p23)


朝鮮民主主義人民共和国によるロケットの打ち上げにはヒステリックに反応する日本社会だが、自国の「ロケット技術」(プルトニウム保有はもとより)が、周辺の国や人々にとって、どれほどの脅威でありうるのかということを、マスコミももちろん報じないし、想像する人はほとんどない。
実はかく言う僕自身も、上のくだりを読んで、はじめてその事実に気づいた。
こうした、自分たちの存在と行為がはらむ他者への脅威や暴力の大きさに対する、度し難い鈍感さ・無自覚は、われわれが原発の存在を自明のものとして許容し、「豊かさ」を享受してきた事実と、決して無縁なものではない。
しかもその両者を接続させているのは、われわれの日常的な感覚なのである。





二つ目の章「技術と労働の面から見て」では、原子力(核)発電の技術が、原理的に「未熟な技術」というしかないものであることが、強調される。

それにたいして、原発放射性廃棄物が有毒な放射線を放出するという性質は、原子核の性質つまり核力による陽子と中性子の結合のもたらす性質であり、それは化学的処理で変えることはできない。つまり放射性物質を無害化することも、その寿命を短縮することも、事実上不可能である。(中略)無害化不可能な有毒物質を稼動にともなって生みだし続ける原子力発電は、未熟な技術と言わざるをえない。(p32〜33)


原発は、まず原料であるウランの採掘においても現地の人々を被曝させてしまうし、たとえ事故が起きなくても、放射能や熱を周囲に発散して汚染してしまう。
現場で働く人たちの被曝はもちろんのことである。たとえば、一度稼動を止めると大きな経済的損失を生じることから、点検作業も運転したまま行われるのが当然のようになっており、5名の死者、6名の重傷者を出した2004年の関西電力美浜原発の事故など、重大な事故がこれまでにも生じてきた。
だから、

原子力発電は、たとえ事故を起こさなくとも、非人道的な存在なのである。(p44)


ということが言えるし、しかも原発においては

どれだけ技術が進んでも事故は起りうると考えなければならない。(p45)


のだというのに、(今回の事故で過酷な現実として示されたように)その影響の時間的・空間的な広がりの大きさを考えれば、

原発では試行錯誤による改良は許されない。(p58)


のだから、

とすれば、端的に原発は作るべきではないという結論になるであろう。(同上)


ということが、説得的に述べられるのである。






最後の章「科学技術幻想とその破綻」は、とりわけ科学史家としての著者ならではの文明論的なスケールを視座を提供してくれる内容である。
経験(自然との試行錯誤的な関わり)を重視する技術本来のあり方から決定的に離れて、理論主導の技術として発展してきた(ヨーロッパ出自の)「科学技術」なるものが、19世紀末から20世紀にかけての資本主義経済の危機に関わって、巨大な「国家主導科学」(産軍複合体など)へと推移した歴史が巨視的に顧みられ、その「行く末」として、マンハッタン計画における核開発が捉えられる。

抽象的で微視的な原子核理論から実際的で大規模な核工業までの長く入りくんだ途すじを踏破するその過程は、私企業を越える巨大な権力とその強固な目的意識に支えられてはじめて可能となった。それは官軍産、つまり合衆国政府と軍そして大企業の首脳部の強力な指導性のもとに数多くの学者や技術者が動員され組織されることで実現されたものであった。(p80)


この体制は、無論戦後の原子力(核)産業にも継承され、そして世界中に広がっていく。
それは、日本においても福島の事故以後露呈したように、一度動き出したら誰にも制御しがたい「巨大モンスター」(前福島県知事の佐藤栄佐久氏の言葉)としての原発(産業)を生み出し、さらに、地元・マスコミ・学界からも批判者を完全に排除した翼賛体制を作り上げようとする「原発ファシズム」によって、それを維持・強化していくのである。

経験主義的にはじまった水力や風力あるいは火力といった自然動力の使用と異なり、「原子力」と通称されている核力のエネルギーの技術的使用、すなわち核爆弾と原子炉は、純粋に物理学理論のみにもとづいて生みだされた。実際、これまですべての兵器が技術者や軍人によって形成されていったのと異なり、核爆弾はその可能性も作動原理も百パーセント物理学者の頭脳のみから導きだされた。原子炉はそのバイプロダクトである。その意味では、ここにはじめて、完全に科学理論に領導された純粋な科学技術が生まれたことになる。しかし理想化状況に適用される核物理学の法則から現実の核工業――原爆と原発の製造――までの距離は極限的に大きく、その懸隔を架橋する過程は巨大な権力に支えられてはじめて可能となった。その結果は、それまで優れた職人や技術者が経験主義的に身につけてきた人間のキャパシティーの許容範囲の見極めを踏み越えたと思われる。(p88〜89)


こうして著者は、古来人間が有してきた、自然にたいする畏れの感覚を取り戻すことの重要さを訴えるのである。




最後に感想を一言。
その成り立ちからして「原子力(科学・産業)」は国家に対して中立的なものではありえないのだから、原発の脅威は、国家そのものの脅威だと言えると思う。
だがその国家は、われわれの外部にあるものではなく、われわれ自身が形成し機能させているものでもある。
つまり原発は、われわれが体現してきたこの国家の暴力性、正確に言えば、国家による他者への暴力を黙認しながら同一化するわれわれ自身の生のあり方を反映したものだとも言えよう。
国家と重なり合うような、われわれの暴力性への無自覚が、原発という怪物を生み出し支えているのだ。